はじめに
なんちゃらリテラチャー部は実作を中心として活動するオンラインコミュニティです。
主にDiscord上で活動していますが、この度、その活動の発信として「ぬえすけーぷ」を始めました。「雑誌」あるいはメルマガのようなものですね。
7月は実作とそれへの合評会は時間的に割愛せざるを得ませんでしたが、次回以降は掲載していくつもりです。お楽しみに!
活動総括
きけりな
「好きな映画」をテーマにしつつ、映画を見ることにも「好きな映画」を語ることにも、苦手意識はつきまとう。イッキューTOKYOさんと同じように、映画を見るぞ/語るぞ、と身構えてしまうからでしょう。
「好きな映画」について考えたとき、最初に連想したのは、「違和」と「そこに存在していること」でした。
「そこに存在していること」は黒沢清と斎藤環との対談で黒沢清が述べていた「そこに存在してしまうことがイコール恐怖になるということがら一つのぼくの理想形です。」という言葉と近いニュアンスかもしれない。あるいは、「そこに存在していること」は、ル・パ・ラさんがおっしゃった、「台詞や映像の意味が一義的に決まるような映画」ではなく、「ドキュメンタリー性を取り入れた映画」の「日常のやり取りや、役者の匿名性」に「居心地がいいです。」という感覚と近いのかもしれません。とりわけ自分はホラーオタクというわけではなく存在=恐怖という構図には執着がありませんが、映画として存在していること、一義的な意味を阻んで存在していることに刺激を受けるのかもしれません。
逆に、一義的な快楽として、「意志の勝利」を思い出しました。政治的な評価はさておき、という文句が不可能なのは承知な上で、整然と映画の運動が収斂していくのが気持ちよかった。
同一視するのは危険ですが、「泣ける映画」や「笑える映画」のようなカテゴリで、一つの意志へ向けて映画/観客を動員する力学はある。
それは、映画は一人で見るものかつ、リアルタイムで体験を共有するメディアだからかもしれない。小説なんかは個人的体験すぎるし、演劇は一人で見るもの、というより、観客の一員として見るものという感覚がある。
そのような一義的うねりへの対抗として、「違和」と「そこに存在すること」という考えが浮かんだのかもしれません。
「違和」について、毒塩先生さんは、「『作品の構造とは外れた部分にある情報が増殖し続けること』に近い」とおっしゃっていました。おそらく、自分が面白がる「違和」と同じ認識だと思います(というのも、自分も「違和」をいまいち言語化できない)。また、fesakiさんがロベール・ブレッソンの映画のイメージの「気持ち悪さ」についておっしゃっていて、それも自分の漠然と考える「違和」のようにかんじます。
このように考えると、「違和」と「そこに存在すること」は、同じことを別の言い方で表現しているだけのように思えました。
映画は一義的にうねりを規定する運動がある。だから、そこから外れたような情報に関心が向くし、そここそがキモだと思えます。
一義的なうねりをさらに、「イメージ」と言い換えてもいいかもしれません。一つの「イメージ」の連続としてしか、自分は映画を認識できないから、その認識を揺さぶってくれるものを求めているのかもしれません。バルト流に、「第三の意味」と捉えていいのかもしれない。
「イメージ」は把握できるのに理解できない映画として、「三つ数えろ」を思い出しました。何か、「ハードボイルドミステリ」の「イメージ」には誘導される。なのに、何もわからない。「イメージ」でしか映画を理解できない自分にとっては、ある意味理想的な映画の在り方なのかもしれません。
「イメージ」と戯れながら、「意味」が放逸していく。そこが、「好きだ」と思う瞬間かもしれません。
イッキューTOKYO
映画というものを観たり考えるとき、大抵の人は自意識と向き合ってしまう。その映画を見ようとしたというその選択から自意識は始まっているし、それを見てどう感じるかというのをある種自分を試しながら見ていくところがあると思う。良い悪いや好き嫌い、そしてその理由は。たぶんその向き合う行為が、映画を最初から最後まで通して観ないと正確じゃなくなる気がして、そんな勝手なこだわりでタイパ時代に逆らうように上映時間の拘束に苦しみ、鑑賞の敷居を自分で高めてしまう。エゴだよ、それは。私!
映画館に行くなら、ある程度空いてる映画館で、端っこのほうや前列のゆとりのある席で観るのが好きです。人気作や試写会や、あと新宿だとか立地的に集客の多い映画館で隣の席を他人に埋められながら見るのがどうも苦手だ。観たいものなら人気が落ち着いた頃、空いた映画館へ行こうと思うし、そのうち配信もされるから家でビールでも飲みながらいつでも排泄できる環境で観たほうが結局楽しい(トイレが近い)。
毒塩先生が僕の活動報告を読んで、乗っかった楽しい返信をくれた。僕は素直に面白く自分の意見を言ってくれる人を好むし、信頼する。そこにエチケットがあるなら尚良しで。ナラティブなんて、正直、別にあえて見るものではない笑 もっと面白いガンダムはあるし、ガンダムファンにもさほどウケていない。せっかくなら映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から見ていただいて、面白いと思ったなら映画『機動戦士ガンダム F91』も見てほしい。富野作品に興味がわいたらアニメ『伝説巨神イデオン』とその劇場版『伝説巨神イデオン 発動篇』を見て、そのくらいでもう、十分。Vガンも悪くないけど面白さの半分はカテジナという自己愛の強い理想主義的女キャラによるものだし、Ζは後半手抜きになってクオリティが低下する。あっ、平野綾の『God knows…』はセカイ系です先生自信をもってください……!(死。
映画好きでなくても、一つのコンテンツの摂取でしかなくても、それでも映画を見て血肉になることはやはりあって、それに一抹の期待を感じながら希望を捨てずに我々は映画に向かうのでしょう。時間や客席という拘束にも耐えながら……。僕は映画を見るとき、かつては時計とにらめっこしながら「早く終われ」と思いながら見ていました。その感覚を見て見ぬふりしながら鑑賞できるようになっただけ、成長かもしれないし老いかもしれない。
ル・パ・ラさんの報告のなかに、棒読みというワードがありました。正確には棒読みではないのでしょうが、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』は邦画で一番好きな作品です。棒読みにも聞こえる大量の台詞と、過剰な著名俳優たち。そういった数の暴力ともいえる作風が、庵野実写における間の悪さやB級っぽさという欠点のカバーにもなり、邦画の持ち得るエンタメ性の最高位とすら思い感動しました。
この映画を好きです、ということは自己紹介でもありファッションでもある。人は自意識をそこに向け、撮ってもないくせに偉そうに批評してしまう。馬鹿なレビューを読むとうんざりするし、自分のレビューも誰かにとっては辟易するものだろう。それでも何かを語って他人にあなたの自意識を見せてほしいし、その題材として映画というのはとても適度で、あぁ映画文化はまだしばらく安泰だろうなと思わされました。
毒塩先生
ロブ=グリエの『嫉妬』について、カメラ・アイ的な視点から空間が描かれて、その中で同じイメージが反復されていることの意味について話し合った。この作品から感じるストレスのなさの根幹はなんだろうと考えてみると、作中のフランクとKの読んだ本に関する会話がすべてなんじゃないだろうか。登場人物の行動や言動について、まるで知り合いを評価するように話し合い、作品内に登場する場所について自分の体験談と結びつけて語る。「ここをこう読め」「ここはこう感じろ」という要請がなく、世界がただそこに“ある”。そこに安心を感じる。
きりけなさんの応答を読んでいると、ゴダールのアイドル性は、なにを話すにしても「ゴダール」の存在を念頭に置いてしまうことに起因しているように思えてくる。ここしばらく読んでいる中上健次も同じような印象で、古川日出男の「中上健次に著された作品として読まないでいることは不可能に近い」という解説がそれを印象づける。ゴダールも中上も、作り手の存在を意識せずにいられない。
ゴダールの映画は、各作品を通して、同じテーマやイメージの反復が行われている。中上も同様だ。イメージの反復は、世界の連続を印象づける。『嫉妬』を観ることは、イメージの触発を通して、『気狂いピエロ』や『勝手にしやがれ』を観ることになる。それらの集まりが、「ゴダール」というイメージの集合体を形成する。ゴダールについてわずかにでも考えることは、イメージの触発によって、「ゴダール」と接続することになる。その存在を、“ある”と強く感じさせてしまう。これがゴダールのアイドル性の根幹だ。
“ある”という感覚の有無は、「文脈上での置きどころがわからない情報量」に左右されるのかもしれない。マグリットの《イメージの裏切り》で描かれた「パイプではないもの」と、たったいま7秒で書いたパイプの落書きを見比べてみる。落書きは、「パイプではないもの」に比べると、引き出せる情報量にムダがない。落書きは、「パイプであること」の意志のほかには、パイプとして引き出せる情報がない。あとは、筆使いとか、アングルとか、制作者である私個人に関わるものしかない。一方、「パイプではないもの」は、実際のパイプのさまざまな側面を模倣しているがゆえに、円柱の隅に触れる感触や、床に落としたときに鳴る音のような、ただそこにあるがゆえに生まれてしまう「必然性のない情報量」のイメージの総体にわれわれを接続する。それゆえに、「パイプではないもの」を“ある”と感じる。
“ある”ことは支配的ではない。独立してただそこに“ある”だけなのだから、受け手にたいする強制力を持たない。受け手は、そこに“ある”ものからインスピレーションを得て、それを各自で発展させていく。
この“ある”ことのイメージが大きくなっていくと、「温かいミルクの海」の中にあるような感覚になる。おもしろい映画を見終えた後に得られる高揚感はこれだ。情報が渾然として渦巻いている状態だが、エネルギーに満ちあふれているのを感じる。ひょっとすると、「宗教的な感覚」というのは、こういうものかもしれない。ヒンドゥー教の乳海攪拌は、形を変えて各国の伝承に取り入れられている。解釈がなされて、物事を見る型ができてくると、この高揚感は落ち着いてくる。溶質が固まって沈殿していくイメージがこれに近い。ルパラさんは、【活動報告】の「区別のつかないアイドル」について、これを感じたという。この高揚感には、ある物事への知識不足が関わっている。先ほどの「各自のインスピレーションの発展」と結びつけて考えれば、そこにあるのは、「自分を主体とした解釈の可能性」だろう。わたしは『KAGEROU』を読む気はない。『KAGEROU』の内容そのものより、それをとりまく、伝聞で形成されたイメージのおもしろさをたのしんでいたい。
私は、「解釈は創作に含まれる」と同時に「創作は解釈に含まれる」とも考えている。「解釈」も「創作」も要素ではなく部分集合で、「解釈」と「創作」には積集合となる部分が存在している。映画の感想は映画の二次創作で、映画の二次創作は映画の感想だ。「文学の与えるもっとも大きな楽しみは創作である」というハーバート・クエインの考えに、私は共感する。そしてハーバート・クエインの述べる「創作」とは、この「解釈」と「創作」の積集合ではないかと考える。
私の好きな映画は、先述の「温かいミルクの海」の高揚感を与えてくれるようなものだ。それは“ある”ものであり、宗教的な感覚を与えるものであり、自分を主体とした創作と解釈をうながすものである。そしてそれらの要素は別々にあるわけではなく、密接に関わりあっている。
ル・パ・ラ
「好きな映画」というお題に対し自分があげたのは、「自然な会話」(素人性や匿名性)であり、物語を一義的な読み方に誘導しないタイプの映画であると要約(集約)できると思います。
イッキューTOKYOさんが仰った「映画はそもそも作り物なのだから、自然風な会話演出は映画的に演出できない逃げ道である」というコメントはかなり痛く、自分も小説やマンガに対してなら同様の意見を持てるのですが、自分の場合、映画というメディアに対して求める機能がかなり限定的なのだと反省しました。
きけりなさんの「凡庸で退屈な会話を特権的に「自然と会話」と見なしたいのではないか」というのも、同じく痛い。自分は慢性的に「自然な会話」に欠乏しています。まず人と会話をする機会が極端に少なく、そのくせ周囲の会話に対して注意を向けず、ラジオを聴く趣味もありません(本当は「自然な会話」になど興味がないのかも)。だから映画に限らず自然な会話を特権化しているのかもしれない、と思いました。また「自然な会話」の一例として「けいおん!」のキャラクター間の親密な会話をあげていただきましたが、「自然な会話」には一種、キャラクターを覗き見したいという欲望があるかもしれません。
毒塩先生の応答はそれ自体が「自然な会話」であるようにも思えました。フィクションの面白さの一つに「ポリフォニー」性があるのだとして(そこに異論はない)、一人の人間が複数のキャラクターを動かしているという奇妙さが根本にあるように自分には思えます。毒塩先生がその特異な形式で書かれるレビューで複数のキャラクターを動かす時、会話は一つの方向に収束せず、毒塩先生はこの文章のどこにいるのかと不思議な感覚に陥ります。
あとは他の報告・応答を見て自分は映画の「イメージ」に対する執着がないというのは気がつきました。
きけりなさんの言う「違和」も、言われてみれば同意するものの、自分の場合は映画への積極的な関与がないと、要はこちら側のコンディションでいとも簡単にどうでもいいものに転じてしまう(その点「自然な会話」は快楽原則的に楽しめてしまう)。というわけで、映画館やらなんやらで、拘束されて観る環境が重要だなと思いました。
fesaki
またしても遅れまして申し訳ございません。他の方への応答もできていなかったので、それも兼ねた総括とさせて頂きます。
皆さんの報告を改めて読み返して、大嫌いだった高校の先輩が「黒澤明以外で見る価値のある邦画って存在するのか?」と言っていたことを思い出しました。彼はその根拠の一つとして「邦画の演技がクサすぎる」ことを挙げていたのですが、不見識な発言に憤っていた私も内心これには頷けるところがありました。実際の巧拙や彼此のディレクションの違いといった問題は(よくわからないから)さておくとして、確かに邦画のなかで交わされる会話は私たちが普段おこなっている「自然な会話」とは余りにも違いすぎる。「クサすぎて、見る価値がない」という態度も、この感覚をどう表現するか、どう受け止めるかの一例に数え入れることができるでしょう。
きけりなさんと同様、私も黒沢清の映画には何か違和感を覚えます。それはもしかしたら、この「つくりもの臭さ」に由来するのかもしれません。もっといえば、哀川翔がつくりもの臭い。『復讐』シリーズでも『蜘蛛の瞳』でも『蛇の道』でもなんでもいいので、未見の方はぜひ一度あの抑揚を欠いた平坦な声と、ほとんど動かない表情を見ていただきたい。たとえば『蛇の道』の冒頭、主人公の娘を殺した容疑者を拷問するシーンにおいて、哀川演じる元刑事は初めこそ静かに相手を問い詰めていくのですが、要領を得ない解答についに激昂して激しい暴力をふるう。しかし、ここでの哀川翔は端的に「そういう演技をしている人」にしか見えません。「娘を殺された悲しみ、怒り」といった、キャラクターの背景が見えてこないのです。これを「下手くそ」の一言で片付けることは容易ですが、黒沢清の映画を見ることは、こうした違和感と向き合っていくことなのかもしれない。『蛇の道』で哀川翔の隣に置かれるのが香川照之という対照的な、むしろ「演技過剰」とも言える俳優であることからも、なにか作為的なものを感じます。殺された娘が幽霊として現れる(正確には現れなかった、気がしますが)のも面白い。
ル・パ・ラさんやイッキューTOKYOさんがフェイバリットとして挙げている岩井俊二や北野武、庵野秀明は、それぞれ微妙な違いはあれど俳優の演技に違和感がある映画を撮る監督ですね。岩井俊二の場合、最近の作品はそうでもない気がしますが『Love Letter』での豊川悦司なんかは完全に哀川翔と同じたぐいの違和感を発していた記憶があります。北野映画ではなんといっても武の顔が最大の違和感として君臨している。柳ユーレイの「首」が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるファーストショットから始まる『3-4x10月』から最新作『首』に至るまでずっと、あるいは交通事故による顔面麻痺すらも含めて、北野映画では顔あるいは頭部が重要な主題として扱われ続けています。庵野秀明の映画では、『シン・ゴジラ』の石原さとみや『シン・ウルトラマン』の山本耕史、『シン・仮面ライダー』の浜辺美波など、哀川翔や豊川悦司のそれとは全く違うレベルで嘘くさい演技がおこなわれている。にもかかわらず、庵野本人はむしろ「リアル」を追い求めているらしいから不思議です。毒塩先生が挙げているゴダールの映画は、単純にフランス語が出来ないからなのか、俳優の演技に関してはよくわからない。もちろん違和感しかないのですが、時期によっても作風が違いすぎて一括りにまとめることが難しい。そういえば、普段ほとんど映画を見ない妹と一緒に『カルメンという名の女』を見に行ったら結構面白がっていました。単純に『カルメン』が活劇していてカッコよかったからなのかもしれませんが、映画に対する先入観やリテラシーが低いほどゴダールを素朴に面白がれるのかもしれない。
映画につくりもの臭さを感じるとき、私たちは「そこにある俳優の身体」を感知しているのかもしれません。いわゆる「自然な演技」は観客に何の違和感も抱かせることがないし、映画は没入するための「別世界」になる。それが良いことであるとも悪いことであるとも思いませんが、ごく単純な意味において映画は「現実」と地続きにしかつくられないし、見られることもない。この点をもっと突き詰めて考えている人物として、きけりなさんがよく参照している保坂和志やいぬのせなか座(山本浩貴)の名前が挙げられるでしょう。(いぬのせなか座に関しては難しくてよくわからないのですが……)
自分が描くマンガのクオリティの低さに絶望して、「世の中にはいくらでも面白いマンガがあるのにどうして苦労してこんなものを描いているんだろう」という気持ちになることがあります。どうやらこれは創作あるあるらしいです。けれど、マンガも「現実」と地続きにつくられていることを忘れてはならない。どんなマンガも勝手に自然発生するのではなく作者と「現実」の調停の結果としてつくりだされるものです。仕事であれ趣味であれ「マンガを描く」ことは働くとか勉強するとか恋愛するとか、私と「現実」が関係する行為の一つであって世の中に「面白いマンガがある」こととは全く関係がない。川勝徳重『電話・睡眠・音楽』のあとがきを読んでそんなことを考えました。
――私はそもそもマンガを描く才能があまりない。絵は下手で人物を描くと福笑いになるし物語も作れない。「コマ割りって何だ」「物語って何だ」というところから考えないと何も描けない。これはカッコつけてるわけでもなくて、本当に描けなかったし、今でもスラスラとマンガを描く人の存在が不思議でしょうがないのです。(…)私はいまだに、自分が何を表現しようとしているのかわかりません。(...)これをハッキリさせるためには……そしてマンガで描くためには、新しいスタイルが必要なのではないかと近頃よく思います。つまり私は私のリアリズムを獲得したいのです。(『電話・睡眠・音楽』)
推薦コンテンツ
【吉祥寺オデヲン】
色んな映画館で、極音上映や、IMAX上映などを行っているが、正直、自分には違いがよくわからない。初めてBlu-rayを見たときも、DVDより画質いい、のか? とあんまわからなかったくらいなので、恥ずかしながら、自分の感覚はかなり鈍い。
爆音上映とかも、最初はテンション上がるけど、すぐに爆音に慣れてしまうので、そこまで興味ない。
なので、とりわけ好きな映画館(の上映方法)はないのだけど、吉祥寺オデヲンはけっこう好きです。
端的に言って、座席がいい。前列と後列が半席分ずれていて、前列の人の頭が邪魔にならない。
加えて、座席側の傾斜が少ないから、スクリーンとほぼ平行な位置で見ることになって、首を変に傾ける座席が少なくなっていて、快適。
ただ難点として、アクセスがいいせいで、いつも人が多い。名古屋にいたころはシアターに五人くらいいたら「多いなー」と思っていたのに、吉祥寺オデヲンだと平日の午前中でも隣り合ったりしないまでもけっこう人がいる。ただ、人が多いのは吉祥寺オデヲンに限らないので、「東京怖い」という話です。
しかし、そういう人の多さ込みでも、座席はゆとりがあるしぎゅうぎゅうな感じしない。足元にも広さがわりとあって、軽く伸ばす程度問題ない。
音響などに特殊な効果は(たぶん)ないが、映画体験という意味では、快適にゆったり見られるのが何より至高です。
欲を言えば、もっと人減らないかなーって思ってます(おいおい)。
(きけりな)
【機動戦士ガンダム 逆襲のシャア】
もう単に、アニメ史に残る名作映画です、と終わりにしたいが、それでは魅力を伝えられないので。しかし、逆襲のシャアの魅力を伝えるのは難しい(語ることの難しさは逆襲のシャアに限らないが)。
富野由悠季監督作品、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」は、1988年公開。「機動戦士ガンダム」、「機動戦士Zガンダム」、「機動戦士ガンダムZZ」の続編にあたるロボットアニメ。しかし、逆襲のシャアだけ見てもほとんど問題ない。
ガンダムシリーズの舞台は、人類が宇宙にコロニーを作り移民するようになってからしばらく経った未来。シリーズでは主に、宇宙移民者と地球との緊張関係が背景となっている。初代の「機動戦士ガンダム」では、統括的に社会を支配していた「地球連邦」とそこからの独立戦争を試みた「ジオン公国」の戦いがメインストーリーだった。その中で、巻き込まれる形でモビルスーツ(巨大ロボット)のパイロットになったアムロ・レイと、宇宙移民の独立運動を唱え暗殺された人物の息子という立ち場を隠しながら、ジオンの一軍人として立ちはだかったシャア・アズナブルとの、単なる対立だけではない、共感や互いへの嫉妬や一人の女性を巡る悲劇などの因縁が繰り広げられた。
今作の時系列的には、初代では少年/青年だったアムロとシャアが中年に差し掛かったころ。ジオンの残党である「ネオ・ジオン」のリーダーとなったシャアと、地球連邦軍の一軍人、アムロの対立がメインとなる。そこに、映画からの新キャラクターのエピソードが絡みながら進行していく。
今作でのストーリーの枠組みは、小惑星を地球に衝突させる「テロ」をしようとするシャアたち。それを止めようとするアムロたち。その中で、エゴや感情や社会的立ち場に振り回されるサブキャラクターたち。というものでそこまで複雑ではない。だから、ストーリー的な楽しみより、キャラクター間のドラマが面白い作品だろう。もちろん、かっこいいモビルスーツが美麗な作画でエキサイティングな殺陣をすることをシンプルに楽しんでも構わないわけだが、それだけが魅力ではない。
子どものころから何度も見返している作品だが、成長するに従って、逆襲のシャアの見方も変わっている気がする。それが逆襲のシャアの豊潤さの証明です、というのはトートロジーに過ぎないから無意味な評価だ。一方で、自分の着眼点として、ずっと、主人公である、アムロ・レイに興味がないのは一貫していた。
半ばフェチだが、自分は悪役が好きだ。だから、ここでは、逆襲のシャアの「敵」の魅力に焦点を絞りたい。
敵、それは、タイトルにも冠されているように、アムロのライバルであるシャア・アズナブルである。そして、これはシャアの映画だ。映画を駆動させているのはシャアの思想や行動で、アムロはそれに対処することしかしないし、できない。
シャアの魅力は、本音と建前、理想と現実、自分のやれることとやらなければならないこと、社会的責務と個人的エゴのギャップを意識しながらも、ギャップの境界が自分でもよくわからなくなっていることだと思う。雑に括ってしまえば、「中年の危機」、大人思春期としてありふれているのかもしれない。シャアはそれを隠そうとするし、どこまで自認しているのかおそらくシャア自身でもわからないし、他のキャラや視聴者も、シャアのことがわからない。
以前、ネットの感想を見ていると、「三十分おきにシャアのことが好きになったり嫌いになったりする映画」とコメントしている人がいた。その感性は正しいと思った。
アムロは職業軍人として、仕事とプライベートを「大人」に切り分けて暮らしている。十全に社会化されていて、シャアに対しても、忠実に、保守的な軍人としての正義をなそうとして揺るがない。
一方で、シャアは揺らぎ続ける。シャアは一種のテロリストとして、地球に小惑星を落とそうとする。
その目的は、地球連邦の高官のような政治的に腐敗した愚民を粛清するとか、宇宙に移民させられて難民を作り出した歴史を終わらせたいとか、地球に人が住めなくして汚染をやめさせ地球の環境を守るとか、人類すべてを宇宙に移民させてニュータイプ(一種の超能力者)として覚醒させたいとか、色々な題目をアピールするが、その一方で、「私は打倒アムロ以外に興味はない」、「私は世直しなど考えていない」と述べる。
だけど、シャアにとって、ここに矛盾はない。「ネオ・ジオンの総帥」として、卓越した技能をもつパイロットとして、ニュータイプの一人として、あるいはニュータイプになりきれないオールドタイプとして、上司として、父代わりとして、恋人として、アムロのライバルとして、そのときどきに思想や言い方を、使い分ける。加えて、感情的な売り言葉に買い言葉で言い放つこともある。そして、その立ち場が混然としていて、シャア自身もどのポジションでいるのか、いるべきなのかわからない。なのに、けっきょく全体としてその立ち場で求められる「シャア」を的確に演じてしまう。
物語の最後は、アムロとシャアのみみっちい口論で終わる。社会正義とか世直しとかでもなく、クェスという、アムロのもとからシャアのもとへ行ってパイロットになってしまったニュータイプの少女について、罵りあう。劇中、シャアは露骨にクェスの感情をコントロールし、パイロットとして利用していたのに、口論の中、アムロの言葉で初めて気がつかされたように、
「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じてクェスをマシーンにしたのだな」
と述べる。
映画の最初から最後まで、アムロとシャア、あるいは他のキャラたちのみみっちさを延々と続けながら、ラストシーンで、超常現象的な「奇跡」が起きて、映画はもう終わってしまう。
この映画でのみみっちさと「奇跡」の崇高さは、二項対立ではなく、シャアの在り方のように、混然としたものだ。
組織人として社会的な正義に忠実なアムロは崇高で凡庸でみみっちい。
人類全体を善くしようとしながらもエゴやしがらみに囚われるシャアは崇高で情けなくみみっちい。
そのみみっちさこそが崇高さなのだ、あるいは崇高さにもみみっちさを孕んでいる、というわけでもなく、単にものの見方として、人々はみみっちかったり崇高だったりする。「悪役」としてのシャアは、理想主義的に世界を革命しようとする崇高な指導者であると同時にアムロや職場の人間関係に囚われるしょうもない中年でもある。繰り返すが、この崇高さとしょうもなさ(みみっちさ)は逆説で結ばれたり、二項対立としてあるものではなく、シャアに限らず、人という生き物がそして人の作り上げてきた社会、世界が何もかもぐちゃぐちゃでそういう在り方なんだ、という一種の真理を描いている。
庵野秀明が編集した、「逆襲のシャア友の会」に寄稿していたふくやまけいこは、ロボットに興味ないし、登場人物がみんな中学生みたいで、あまり乗れなかった、と書いていた。一方で、キャラたちのしょうもなさを、面白がれずとも、よく分析できていた。
ふくやまけいこは崇高な、「大人」なものをよく書くから、乗れないことはわかる気がするし、これも正しい映画の見方をしていると思う。
だけど、「年を重ねてもずっと私(たち)はみみっちい」と感じる人たちにとって、逆襲のシャアは極めて本質を説いていると思う。少なくとも、自分が初めて見た小学生のころから現在に至るまで。
そして、いい年して、崇高なアニメを見ているしょうもなさ(イマドキはそう思わない人も増えているかもしれないが)という意識と時代を越えて呼応するものだと思う。その自意識の拡大、あるいはメタファーとして巨大ロボットがある。
だから、思春期的な感性から抜け出せないと感じている人、何か自意識にアンビバレントな部分を意識している(せざるをえない)人、エゴと社会のギャップを感じているは、特に、一度見てほしい。何か、わかることがあるかもしれない。単純に、めっちゃかっこいいSFアクションとしても一見の価値ありです。今でもモビルスーツのデザインや戦闘シーンの演出はハイカラだ!
逆襲のシャアの面白さは、最初に語りにくいと述べたのはまさにその通りで、人や世界のカオスがそのまま映画にあることだと思う。ロボットアニメという大なる虚構の中で、そのカオスを腑分けせず、ただ提示していることがやはり偉大な映画だと感じる。
(きけりな)
【ミスティック・リバー】
僕が大学時代に初めて出会った、個人的10点満点の映画が『ミスティック・リバー』でした。
2003年公開のアメリカ映画で、監督はクリント・イーストウッド。物語自体は陰鬱さのあるサスペンスなのですが、映画表現が淡々としているので不思議と見やすい映画だなと思います。撮り方にあまり癖がないぶん、話の大筋やキャストをしっかり追える。これの肝は絶対にそこだし正しい。監督が作品の引き立て役に徹してるんですよね。てか世の中の監督って我を出しすぎなんじゃないですかね?作品見てると監督の顔ばかり浮かんじゃうみたいな監督、苦手なんですよね。タランティーノとか。。作品を自己紹介にしないでください!笑
ミスティックリバーは後味悪い映画としても語られやすい作品です。見たあと拍手をしたくなるような結末ではないし、何度も味わいたくなる内容でもないです。でも、一年前くらいに久しぶりに見て、やっぱり良いな~と思いました。フィクションだからハッピーエンドで終わってほしいって言う人いますけど、僕はその意見全く理解できないんですよね。映画で大事なのって終わり方なんでしょうか。終わりよければ全て良し?うーん。。
その世界に引き込まれて居られる、映画全体の使い方が上手な映画がいいですね。通して飽きを感じさせないというか。静と動がはっきりしていて静が退屈なものとかは苦手かも。静の中にも、退屈しない場面転換や展開があってほしいです。
ミスティックリバーはキャストだとティム・ロビンスが好きです。上品さと愛嬌のあるベビーフェイスで、たっぱがある。この朴訥な役柄と合っていて、ついティムに感情移入しながら見てしまいます。
ミスティックリバーの良さって何だろうと考えてみると、テーマの無さかもしれません。サスペンスとしてそこで表現したいサスペンス以外のテーマがなくて、純粋にサスペンスとして見られる。サスペンスの中で社会問題の提起とか家族愛のお涙とか、まじいらないんですよ。ただのサスペンスであることが、最高です!
(イッキューTOKYO)
【スーパーロボット大戦30】
昔はレトロゲー好きで、SFCのRPGとか3DSくらいの時代まで実機でやってましたが、時間もなく話を共有できる仲間もいないので次第にやめていってしまいました。そんな自分がSwitchで久々にゲームハードに触れ始めたものの、ポケモンだけでずっと眠らせてしまってたのですが、この前ポケモンぶりに触ってハマったゲームが『スーパーロボット大戦30』です。
ってまだクリアしてないんですけど笑 かなり終盤であとは作業を残すのみなんで全クリ面倒臭くなっちゃって(悪い癖)。ゲームってクリア手前でやめちゃわないですか?ラストダンジョンに挑む頃ってキャラクターも揃っちゃって新規性がないんですよね。あとはやるだけ、なのが非常に、めんどうくさい。
スパロボ30って正直とんでもないヌルゲーです。難易度調整はできるけど、課金での追加設定である超高難易度以外はただ敵が硬くなって手間が増えるだけで、レアパーツが手に入るとかの難易度を上げてのプラスがない。それなら資金や強化ポイントが増えるビギナーモードのほうが純粋に俺ツエーしやすくて楽しいかな。と思いきや、それはそれで強くなりすぎてしまう。雑魚はたいてい一発で落とせるし、攻略で何の苦労もしないうえ各話1ターン攻略も可能。
でもスパロボってキャラゲーですしね。SFCやPS時代の戦略ゲーっぽさってスパロボに結局あんまり求められてなかったんですね。好きなキャラで好きなように遊びたいユーザーたちに刺さってか30は結構売れたみたいです。強いけど好きじゃないゲッターやマジンガーを攻略のためにわざわざ使わなくても、ガンダム系のオールドパイロットとかでメンバー占めてもクリアできちゃう。雑魚ユニットや雑魚パイロットもある程度はアホ強化できるし、ちゃんと使えるものになる。
スマホのソシャゲ感が強くて自由にステージを選べてしまうぶん、それ対応でストーリーが分割されてしまっていて話がほんとに面白くないけど、そもそもスパロボって見るほどのストーリーでもないでしょと思ってドラマはスキップしまくりました。たまに面白いクロスオーバー、前はあったけどね。
キャラクターをかっこよさやかわいさで語ることが多い今に合わせた、いいスパロボかなと私は思いました。(まる
(イッキューTOKYO)
【CURE】
黒沢清監督の映画『CURE』を初めて観ました。黒沢映画の魅力って私にはつかみきれなくて、合う合わないでいうと、率直に合わないんですけど、私なりにでも『CURE』は面白みが分かった(気がする)ので少し書きます。
これってサスペンスSFヒューマンホラーみたいなものかなと私は思っています。サスペンスが軸だけど、設定はSFであり、そのうえでの人間たちの言動がやけにリアルでそこで怖くなってくるっていう。
この映画では何人か人が死にます。黒沢作品の一番の魅力が殺人シーンだとは、別に言われていないと思いますが、私、黒沢さんの映画で人が殺されるシーンが手放しに好きです。映画全体としてはポカンとしたり首をひねったり、割とそんな感じなんですけど、人を殺すシーンはぞわりとしてシュールでいつも格好いいです。『カリスマ』のあのシーンなんて映画界トップクラスのソリッドだと思います。好き。
主演の役所さんは本当に芝居が上手いですね。間が抜群に良いし、その台詞のニュアンスが寸分違わず口から発せられてるような、監督の意図を汲む勘の良さと作品への理解。相棒役のうじきなんてだいぶ下手なんですよ。台詞を言う前に、自分の中で芝居にワンクッション入れてしまってる。毎回「よし、この台詞を次に言うぞ」のキメがあるせいで、作品全体のリズムからずれるわけですね。それが許されるのは、松田優作だとか石原裕次郎だとか、まあ木村拓哉だとか、そういうスター俳優だけなんです。俺を見ろ、の間になっちゃう。
黒沢作品って、非現実の設定の上で現実的な出来事が起こるその不和が作品のミソだと思うんですけど、その基盤の部分の非現実に触れると、私の中で「嘘じゃん」が勝ってしまって陳腐にB級化してしまうというか……。その上で描かれるリアルさがおもろいのは頭では最近理解ったんですけど、好みの問題ですわなボツワナ。
黒沢さんってホラー系の監督で語られてますけど、「私が撮らせてもらえるもの」という観点でホラーのジャンルを選んで撮ったそうです。大人というか業界というかの都合と、そこに作為的に食い込めるものとしてのホラーの選択だったんだと。一般的なホラー監督のイメージの真逆みたいな人で、そこは非常に興味深いです。それでこう撮るのか、って笑
(イッキューTOKYO)
【濱口竜介】
本題と少しずれるので総括には入れられませんでしたが、濱口竜介がみずからの演技指導について語っている文章がおもしろかったので推薦しておきます。
――『ハッピーアワー』以降、私は『ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリーでジャン・ルノワール監督がやって見せていた「イタリア式本読み」の真似事を、自分なりにアレンジしながら続けています。シーンに出演する役者一同が集まって、脚本のセリフをひたすら無感情に、電話帳でも読むように読み上げます。それをある程度繰り返したら、脚本を伏せたり開いたりしながら、更に本読みを続けます。伏せた状態でも開いているときと同様に文字通りに、無感情に、ほとんど自動的に口から出てくるようになるまで繰り返します。この状態になると、演者の声にある厚みが加わって感じられます。繰り返しによって役者に感じられるセリフの「意味」が摩耗し、役者の声から揺らぎが消えていきます。ただ、より即物的な事態は、テキストがより身体的に「役者の口に馴染む」ことです。普段言いつけない言葉を言うことに、口をはじめとした役者の身体や筋肉や神経が馴れていく。そのことで役者は単純にリラックスするのでしょう。このとき役者はブレのない、テキストそのものを自らの芯として持つような、そういう声を発するようになります。(…)そして、役者が自身もしくは相手役の身体を通じて、テキストの生々しい「意味」に撮影現場で出会うときに起こる反応は否応なく受動的で、役者自身のコントロールを超えた偶発的なものです。現在の私が役者を撮るときに何に照準を絞っているかというと、セリフや演技の巧拙では一切なく、この「役者の意図を超えて、身体に起こる偶然」です。言ってみれば、それは役者の身体の「ドキュメンタリー」を撮るようなものです。(『他なる映画と 1』253頁~255頁)
(fesaki)
次回予告
次の「ぬえすけーぷ」は「ホラー」をテーマにして、総括+推薦コンテンツ+実作+合評会を掲載しようと思います。
具体的なスケジュールとして、
・8月11日までに活動報告を一回以上。それに対する応答は推奨するが任意。
・8月31日までに活動総括。
・8月31日までに「ホラー」をテーマに「推薦コンテンツ」と「実作」を執筆。
・9月1日から15日までを、座談会方式で実作への合評会期間とする。
こんな感じでやれたらいいと思っています。なので、9月末には「ぬえすけーぷ」1号を掲載予定です。
招待
なんちゃらリテラチャー部は随時会員募集中です。継続的な活動を行えるか不安な方も、まずは見学、という形でも歓迎なので、ふらっとご参加ください。以下、何リテラチャー部創設時の理念等。
https://nantyaraliterature.hatenablog.com/entry/2024/07/15/152824
ポリシーに少しでも興味をもってくださったら、フランクにどうぞ!
https://discord.com/invite/7KYgFhqvjC
基本的にDiscord上で活動しています。ぜひお待ちしています!
編集後記
まずは、参加して頂いた方々に感謝を申し上げます。ありがとうございました。
思いつきと勢いで始めてしまい、参加者にはご迷惑をおかけしたこともあると思います。
7月は「レクリエーション期間」として、「テーマ」(好きな映画)にコミットしたコミュニケーションに重点を置きましたが、自分の関心範囲を整理、表明しつつ、他者の報告に刺激を受けるという、当初の目的の一つであった好循環は形成できたと思います。また、皆さんがなんちゃらリテラチャー部のポリシーを理解して参加して頂いたことも、たいへんありがたいことでした。
一方で、ライティング(報告・応答・総括)を強制する負荷や、運営体制の整備など、課題を発見する結果にもなりました。早い段階で問題点を認識できたので、少しずつ改善していきたいと思います。
総合的に、「レクリエーション期間」としてはある程度の達成を感じました。今後、実作を中心に活動していく中で、円滑かつ有意義な運営を行いたいと思います。
あらためて、参加者の皆さんに感謝を。