なんちゃらリテラチャー部

実作フィードバック型コミュニティ

ぬえすけーぷ 1号 「ホラー」

 

はじめに

 実作もいただいて、ようやく「なんちゃらリテラチャー部」本格稼働という感じの二カ月くらいでした。夏ということであえての「ホラー」とのことでしたが、すっかり残暑になりましたね。エアコンつけるのもったいないので、ぜひご納涼ください(?)

 

活動総括

きけりな

ホラーとは露骨に感情操作の方向性をジャンル化したものだと言えるから、人間が主体でなければホラーは成立しえないのだと思います。直接的に、人間中心主義と言っていいかもしれません。自分にとって恐怖の対象となるのは、自らの論理の外側からやってくるものだと考えていましたが、おそらくそれは正確ではない。ホラーをフィクション以前に、自らに生じた恐怖の衝動だとしてまずとらえると、恐怖する主体である自分と恐怖される客体である「何か」という二項対立ではなく、恐怖する自分が、「自分ではないもの」を恐怖の客体として仕立てあげている。fesakiさんの言葉を借りれば、世界/背景の内側に自分が位置している(=「自分」は世界の内部である)と知りながら、世界/背景を「外部」であると「仮構」すること。そのような「仮構」に気がつくことが、恐怖という情動のために必要な条件なのではないか。おばけなんてないさという歌がありますが、かなりラディカルな気がします。おばけなどいない、仮にいたとしても対処手段はある。「だけど」(/「ゆえに」)恐ろしい。それは、おばけそのものが怖いのではなく、おばけを想像しうる私とおばけが出現しうる環境という仮構された二項対立を発生させる私が恐ろしい。素朴になりますが、想像力が怖さの源という言い方でいいでしょう。例えば、幽霊がこの世界に存在するのが自明視されたとしたら、別に恐ろしいものではない。怨霊だとしても、せいぜい熊の出没を怖がる程度(十分怖いけど)のものでしょう。ここで、自分が論点にしていることをいまさら述べると、ホラーのうちでも、「恐怖」ものについてずっと考えていて、「スリル」や「サスペンス」、「ゴア」などは別ジャンルにしてしまっています。狭量だとは思いますが、しかし、「殺されそうだから怖い」と「怖いとされているものだから怖い」とただの「怖い」は区別をしたい気持ちがあります。例えば、幼い子どもが泣くとき、原因より先に泣いたり、泣くべき状況だから泣いたりするのではなく、ただ泣いたりする。もちろん、ピュアな「怖い」が上等とかそういう話ではなく、単に、興味の範囲を絞ると、そう言わざるを得ない。そして、前言を撤回するようですが、ピュアな「怖い」ではない恐怖を内包してこそ、「ホラー」と呼ぶべきなのかもしれない。例えば、心霊現象を自明視したモキュメンタリー、アリ・アスターの映画など、正直興味をそそられないのですが、それは「怖いとされているものだから怖い」を描写するものだからだと思えます。そのようなフィクションでは、ネタ番組で司会や観客が自分の代わりに笑ってくれるように、キャラクターたちは自分たちの代わりに恐怖しなければならない。あらためて、それを否定するわけではありませんが、ホラーを楽しむためには自分が恐怖したい。キャラクターが記号としての感情のチューニングを要求するよりも、単に、自分だけが、恐怖していたい。そのために、ピュアな恐怖を一度はホラーとみなさなければならなかったのかもしれません。ホラー映画がデートムービーにうってつけなのは、吊り橋効果的なアレ以上に、共通認識としての恐怖を誰かが行ってくれるからなのだと思います。そこまで述べてしまえば、「ホラー」の面白さの「ホラー」はあらゆるジャンルで代入できてしまえそうですが……。ざっくり、ホラーを感情移入装置として捉えるか、感情発動装置として捉えるかの違いではないかと思えます。その二つはグラデーションであって、二項対立ではないし、優劣もない。しかし、その二つの差はバルトが言うところの楽しみのテクスト/歓びのテクストのアナロジーとして考えられるかもしれない。その上で、自分は、感情発動装置としてのホラー、読者と言語の関係を危機に落とし入れるものとしての歓びのテクストに惹かれているところが大きい。

 

ル・パ・ラ

8,9月とかけて黒沢清高橋洋楳図かずおなど日本のホラーについて勉強し、人間的な怖さを脱しようと試みたり因習ホラーへの距離感を考えたり世界と対峙するようなホラーを目指すべきだと考えたり、色々と勉強になりました。
因習ホラーについて、『ジャパン・ホラーの現在地』でも話題に上っていました。澤村伊智は自作で批評的に「因習村」を扱っていますが、この本に登場した別の作家はオリエンタリズムであることに無自覚というか、開き直ったところがあり、日本のホラーは今この2傾向がはっきりしていると思います。竹書房の最恐小説大賞の受賞作を2作連続で読んだのですがどちらも「因習村」の作品で、どちらもオリエンタリズムの傾向が強く、飽き飽きしてしまいました。と思いきやディズニープラスで「ガンニバル」を見始め、この先どう転ぶか解りませんが楽しんでいます。が、自分にとっては「ひぐらしのなく頃に」さえあればいい、という思いはそう簡単には揺るがないなということも改めて感じています。
自分自身、オリエンタリズム批判はよくするし、逆に自分の作品や観光への向き合い方に対してオリエンタリズム的(「都会人の視線」)だという指摘もよく受け、民俗学をやっている人から最近「フィールドワークしてたら絶対書かないような、村落の人の視線で書いてないなと感じる作品はあります」という話を聞くこともありました。が、近代以降の日本で、日本人がオリエンタリズム的な視線から逃れることはほぼ不可能で、その視線から脱することができるとでもいうような言説はナイーブに過ぎるなと感じます。閑話休題
イッキューTOKYOさんの「『回路』で表現されている「幽霊がただそこに在り、ただ現象が起きている」という恐怖。これが、個人的にはあまりピンとこなくて、「何が面白いのだこの映画は」と思ってしまう。」というコメントはわりとわかる感覚でした。そもそもJホラーが当初目指していた心霊写真的恐怖を、最近の映像系のクリエイターは目指していないように思います。VHSの映像の粗さに感じる恐怖やエモを目指す方向性が強い。というのもJホラーの達成により幽霊が自明化し、慣れてしまった状況がある(「サユリ」などは制度化したJホラーが前提にないと成立しない)。きけりなさんの言う既視感は、古い映像と言うだけで感じる怖さをまさに説明する話だと思います。
fesakiさん、きけりなさんの背景論はこの一か月ほどだいぶ影響を受けました。小学生の時、楳図かずおはとにかく怖かったのですが(作者含め)、今読むとそうでもないという感想を抱いてしまうものの、今回特に『洗礼』『わたしは真悟』で強く感じたのは楳図漫画はとにかく背景がやたらと怖い感じに描かれているということでした。『漂流教室』『わたしは真悟』『14歳』は物語的にも黙示録的にならざるを得ないですが、世界が終わりを迎えたような風景がいつも描かれており、外部化された恐怖を、読者としての自分は受け取っています。物語の水準においては、キャラクターが世界から阻害されているような不安感が醸し出されている。『洗礼』における「さくら/いずみ」は「追う者」で、実際に恐怖するのは彼女の周りの人間ですが、「さくら/いずみ」目線から物語を見通したとしても、風景そのものの怖さにより(痣が再び現れるのを待つまでもなく)常に不安定さを感じます。
自作でもなるべく風景描写が怖くなるように頑張りたいなと思いました。

 

イッキューTOKYO

 ホラーというジャンルの基盤にあるのは何かと考えたとき、知っているはずの世界に得体の知れない概念が混ざり込んでくる、いわゆる「現象」なのかなと思いました。私はもっとホラーを感覚的に捉えていました。単に怖いからホラーなんじゃないの?と。
 とはいえ未知のものが混ざり込むだけだとSFやファンタジーともいえてしまいます。じゃあそれをホラーたらしめるものは何かというと、「身の危険」なんじゃないでしょうか。自分の身に何かを及ぼされるかもしれないという危険予知や妄想。未知の現象に対する登場人物たちの感情を軸にして描けばスリルやパニックの要素が強くなるし、俯瞰的に現象の構造を見せていくのもホラーの一つの形だし。という。

 

実作

「系譜」(きけりな)

 カルテに書かれた「カヨコ」の名を目にしても驚くことはなく、寿命が近づき明滅する蛍光灯にうんざりしていたことも忘れて、まずいコーヒーをすすっている。窓がないから、朝も夜もなく蛍光灯を浴びて、いっそ暗闇の中でモニタだけ見て、目をしょぼつかせたかった。
 中学生より前だったと思う、エミリが布団に入って消灯してから、こっそりスマホの画面を明かりにして、楳図かずおの「洗礼」を読んでいると、父のヒロトは一時間もすればだいたいノックをしてから自室に入ってきて、おばあちゃんみたいに目が悪くなるからやめなさいと言った。何も読まない日はすぐに眠ったから、もしかしたらヒロトは毎晩、部屋にノックをしてから入っていたのかもしれない。カヨコはエミリが中学生のころにはほとんど目が見えなくなっていて、話すときはずっと目をそらさずこちらの方を向いていたので不気味だった。
「不気味に思うことはありません。憑坐は目が腐り、鼓膜が破れ、鼻を削がれても、あなたたちの気持ちと思い出が降りてくるから寂しさがないですね。あなたたちと見に行った『なばなの里』のイルミネーションで、夜だから花がよく見えないことにも不満だったし、LEDにうっとりする前に、私の目を気にして、歩かせるのに必死でしたね。だけどあなたたちが花にも光にも興味がないことは、幼い頃、とっくに私は思い出していたので、ほら、歩行に乱れはなかったでしょう。私たちはずっとそうだったし、そうなることを恐れる必要はないです」
 カヨコが一人暮らしをしている団地に、ときどき孫の義務として、家事をしに行かされると、毎回のように、そう私たちのルーツを語った。エミリはいつから私たちは憑坐なのか聞きたかった。「洗礼」を途中まで読んでいて怖かった。カヨコは覚えていないと言った。カヨコの住む部屋はほとんど物がなく、ダイニングテーブルに、箪笥の中に数枚の衣類、大きな鏡のついた化粧台、冷蔵庫は腐った牛乳と買い足され続ける卵程度。目が悪くて、動線上に物があったら危険なのかもしれない、最低限の家具が置かれているだけで、綾波レイの部屋のようで、どこか楽しかったが、テレビもないので、カヨコといても楽しいことはなかった。音楽やラジオを聴いている様子もない。調理器具もなければインスタント食品のゴミもなく、普段、カヨコは何をしているのかわからなかった。だから家事といっても床を拭き掃除する程度だったが、ほこりもたいしてたまらないので、すぐに掃除が終わってしまい、夕食を口実に家に帰るまで、エミリはカヨコといなくてはならなかった。
 その日は猛暑日で、自転車に乗ってカヨコの家に行くまでにびっしょり汗をかいてしまって、水筒も忘れてしまったので、カヨコが出した水道水を飲むしかなかった。古びた団地は熱がこもりやすくじっとりした空気をため込み、エアコンもついていないのに、カヨコは汗一つかいていなくて、老いるとはこういうことか、と思いながら二杯目の水道水を飲んでいると、カヨコがシャワーを浴びるように言った。着替えがないと言うと、箪笥からカビ臭い赤いワンピースを取り出して、エミリの身体に合わせ、見えているかのように、大丈夫だと言った。事実、着られるサイズだったが、祖母の服を着ることはおぞましかった。だけど、水道水も飲んだのだから、もう、どのように穢れても同じだし、カヨコの意向に背くこともできなかったので、エアコンのスイッチを入れてから、ビニール袋に汗まみれの服を入れて、浴室に入った。と、同時にカヨコが何か叫んだが、換気扇の音にかき消された。浴室の掃除はしていなかったのに、水垢などは全然なかった。壁の隅のゴムにはカビが生えていたので、ヒロトがそれを知ったら叱責したかもしれない。シャワーはいくら待っても温水にならなかったので、そのまま冷水を浴びた。シャンプーやボディーソープもなく、冷水で汗を流しただけだった。脱衣所に用意されていたタオルも、使用感はほとんどないのにカビ臭かった。
 ワンピースに着替えてカヨコの前に戻ると、私たちはそれを着ていました、とつぶやいて、でしょうねと思いながら、同じ服が着られてうれしいとお世辞を言った。カヨコは、
「本当は?」
 とこちらを見て――視線の方向が精確なだけなのだが――じっとダイニングの椅子に座っている。
「この臭い知っている。おばあちゃん、手術がいやで、ここからいなくなったよね。いや、そんな記憶知らない……。何か、見えなくなってきて……」
 半ば無意識に言葉と記憶らしき痕跡を発していた。もやのような視界が現在と区別がつかなくなって、カヨコが鏡を見てうっとりしているイメージが想起され、
「それが憑坐であるということです。私たちが遺伝したり、伝え合ったりしたりするであろうことです。たくさんの神託を思い出せて気持ちいいでしょう。お伺いします。手術から逃げる方法はありますか」
「ありません」
 私は知っていたからそう言っていた。
「じゃあいいです」
 カヨコはワンピースを脱がせて、小声で何か言った。視界がはっきりしてきて、カヨコが目線を外していることにようやく気が付いた。カヨコは慣れた足取りで、寝室に入って扉を閉めてしまった。エミリはそのまましばらく扉を眺めていたが、動く気配がないので、下着のまま、また床を掃除し、ワンピースを着て帰って行った。
 帰宅するころにはまた汗だくになって、ワンピースを洗濯機に突っ込み、今度はきちんと身体を清めた。エミリは裸にバスタオルを首に乗せたまま、着替えるのが億劫で、リビングのソファに寝っ転がり、テレビとエアコンをつけてアイスバーを食べていた。休日の夕方のテレビにはすぐに退屈して、エミリは眠ってしまっていたらしい、いつの間にかシーツがかけられ、小さく鼻歌が聞こえた。起き上がったエミリをヒロトは見て、
「ワンピース、似合っていただろうね。今日は赤飯にしたから。これからのエミリの言葉はどんどん神託に置き換わっていくだろうね。そうしたら、家族は一層、絆を深めて、一緒になったね」
 と叫んだ。初潮を周知させる風習みたいで気持ち悪、と思って、シーツを羽織りながら、喜ぶふりをした。まどろみから意識がはっきりしてくると、普段の洗濯物の中にワンピースが入っていることがやはり穢れていると思って、リビングを出て洗濯機の置いてある洗面所に向かうと、ヒロトの声がうっすら聞こえた。返事しようとしたが、話しぶりが、カヨコに対するものだった。会話の間がないからおそらく、留守電のメッセージでも入れているらしい。エミリはカヨコが携帯電話を持っているところを見たことがなかったし、室内に電話機もなかったはずだから、相手はカヨコではなかったと、あとになってから思った。二階に上がって自室からパジャマ代わりにしているジャージに着替えて、自宅の柔軟剤の匂いが今日を忘れさせてくれる気がした。食べさせられた赤飯はばれないように嘔吐して、ヒロトが寝静まったのを確認してからカップラーメンを食べた。
 翌日だったかもしれない、学校からの帰り道、図書係の仕事で残ってしまって、同級生たちはみんな先に帰ってしまった。春田駅前の道路を通り過ぎようとすると、駅前のマンションに停車していた軽自動車がクラクションを鳴らしながら近づいてきた。夕日が反射して、エミリが立ち止まってそちらを見ると、車が止まって、中から知らない老婆が出てきて、エミリの目を見据えてまっすぐ歩いてきた。エミリが防犯ブザーを鳴らすか迷う一瞬で、老婆は目の前に立っていた。
「エミリちゃん、私。マユミですよ。カヨコさんとお友達で、一緒に遊んだの覚えているよね。水鉄砲で、私の目を執拗に狙ってきたエミリちゃんを今は許していますから、驚く素振りなどいらない。エミリちゃんなら、もうカヨコさんがどこへ行ってしまったのかわかるよね。教えて。連れて行って。カヨコさんに、本を貸していたから返してもらわなければならないの。いや、本の在り処でもいいですよ。あなたの言葉は神託ですから、信じます」
 老婆がにこやかに手をなでるような、印を組むような、くねくねした動きで、どんどん距離を詰めてきた。
「誰……?」
 エミリは防犯ブザーを鳴らすのも刺激になって危険かもしれないと思って、声を絞るしかなかった。
「マユミですよ。カヨコさんとお友達で、一緒に遊んで、あなたを許しています。許したし、信じていますから、あなたの言葉は人々に伝えられるべきですね。これはお父さんのお気持ちでもあるんですよ。これを見てください」
 老婆が一枚のはがきをエミリに見せた。エミリは一瞬躊躇してから、さっとそれを受けとった。カヨコの家からエミリの家へ送られたものだった。エミリがはがきを裏返すと、
「誰にも話してはいけません」
 とだけサインペンで書かれていた。
「このお手紙をエミリちゃんのお父さんから預かりました。私はマユミです。だから、カヨコさんとお友達で、当然、ヒロトさんともお友達なんです。ヒロトさんとも遊んであげました。鬼ごっこで、執拗に私を追いかけて、捕まえて、喜々としていた。エミリちゃんも、家に帰ってアルバムを確認すれば、私の写真の一枚や二枚はありますね。でも、早く、カヨコさんの居場所を、教えて」
「知らないです……」
「エミリちゃん、嘘は、憑坐にはふさわしくない。真実だけを語るのが、あなたたちですね。それを信じているのに、裏切るつもりですか?」
「どうして私たちが憑坐だと知っているんですか……?」
「私はマユミでカヨコさんとヒロトさんとお友達で、ヒロトさんからメッセンジャーになることをお願いされたし、お願いされる前からエミリちゃんがカヨコさんと一緒って知っていましたよ。じゃあ、カヨコさんがいなくなったのを確認すればいいですか。車に乗ってね」
 エミリは、乗っても逆らっても殺されるかもしれないと直観していた。周囲に人影もない。駅に電車が止まれば誰か来るだろうが、電車は二十分、いや、三十分に一本。大人が帰宅する時間には早すぎるし、少なくとも今電車が来る気配はない。走って逃げても、駅は無人だから意味がない。他に逃げ込めそうなコンビニなども遠すぎる。マユミが柔和な笑みを強める。
「エミリちゃんのおばあちゃんが、家にいるかいないか確認するだけですよ。歩いてもいいけれど、少し遠いでしょう。暑くて、エミリちゃんが辛いだろうと思って、よかれと思って、善意を踏みにじっても怒ったりしませんから、歩きましょうか。せっかくエアコンキンキンにしていたけれど、拒絶するなら、炎天下を歩いて、私もエミリちゃんもへとへとになるでしょうね。かわいそう」
 明確な脅迫にしか聞こえず、エミリは乗せてくださいと言うしかなかった。マユミは相変わらず笑みを崩さず、助手席に座らされた。カビ臭さを芳香剤でごまかしていて、吐き気がした。シートベルトをするように命令され、車がゆっくり移動して、確かにカヨコの団地の方向へ向かった。
 団地前に路上駐車して、マユミは迷わずカヨコの部屋へ向かって行った。団地にもやはり人影がなく、ついていくしかなかった。あるいはカヨコに助けを求めるのが一番確実だと思ったのかもしれない。
 カヨコの部屋の鍵は今は持っていなかったから、開けることを強要されたら逆上されるかもしれなかったが、マユミは当然のようにカヨコの部屋に入った。鍵はかかっていなかった。室内には淀んだ熱気が充満していて、額から垂れた汗が左目に入った。マユミがダイニングテーブルを指さす。チラシの裏に、はがきと似ている筆跡で、
「マユミさんへ。逃げてみるのでエミリのことを頼みます」
 と書かれていた。エミリにはマユミの自作自演にしか見えなかったが、現にカヨコはおらず、鍵も開いていた。マユミは眉を曲げてみせて、
団地のみんなで憑坐を見守っていたけど、やっぱり怖いことがカヨコさんに起きてしまう神託があったのね。もう一度、エミリちゃんが神託を憑依させてくれたら、カヨコさんを助けて、本を取り返して、みんなが幸せになれるんだよ」
「憑坐なんて、おばあちゃんとお父さんから勝手に言われているだけ……です……。私が言うことは、私が知っていることだけで、本当におばあちゃんの行方とか、知らないことは知らないです……」
「この部屋を見ても思い出さない?」
 エミリが黙っていると、マユミが化粧台の前にエミリを引っ張っていった。
 エミリはコンパクトミラーを閉じて、化粧室から出た。カリンから寝ぐせを指摘されたが、後頭部にあって、見つけるのも直すのも時間がかかってしまった。サークル棟の稽古場に戻ると、カリンが、発声練習を継続して腹式呼吸のまま、ぼんやりするなーと歌うように呼び掛けて、メンバーがくすくす笑って、エミリは照れ笑いした。カリンが、
「エミリって憑依型の演技するのはいいけど、役に引っ張られて最近ぼーっとしすぎだよ。朗読劇までまだ時間はあるけどさ、最近大丈夫?」
 エミリは微笑んだまま、
「憑依じゃないよ。演技して、人の言葉を話していると、ぼんやりしちゃうだけ」
 エミリは、朗読劇の練習をしていると、子どものころを思い出してしまいます、とはサークルのメンバーには言えなかった。一笑に付されるのも心配されるのも鬱陶しかったし、大学に入って上京して、誰も私が憑坐であると知らない現状を崩したくなかった。稽古場の蛍光灯がチカチカして、また憑依され、神託が発されようとしている。エミリはトイレするの忘れてたと明るい調子で言って、走ってトイレへ向かった。吐き気がひどい。まずいコーヒーの味が口に広がってきて、いずれ「カヨコ」のカルテを見ることが思い出されてきた。カルテを見ている私は、カヨコが失踪したころを思い出していると神託が下り、記憶として定着してきて、トイレにたどり着いて手洗い場の鏡を見ると、直接、現在のエミリがカヨコの化粧台を思い出してそのまま手洗い場に嘔吐した。幸い、昼食はバナナしか食べていなかったから、ほとんど胃液を吐くだけで済んだ。
 コーヒーと胃液の味がエミリの中で交じり合って、マユミに、
「おばあちゃんはここにいないですね。思い出しました」
 と寝言のように言っていた。マユミが鏡に布をかぶせると、口内で乱反射していた記憶が忘れられてきた。マユミははしゃいだように、
「エミリちゃん、今、神託がなされたんですよ。思い出せますか」
 とエミリの肩をつかんだ。肩を触られて、思い出してきた。
「なんで、私を執拗に狙うの、遊んであげているんだよ。なんで、なんで……」
 そう言って私は肩を揺さぶっていた。
 カリンが背中をさすっていた。慰めの言葉を言っているがいまいち耳に入らず、エミリは、口をゆすいで大丈夫と言って、稽古場に戻って行った。心配そうにカリンが後ろからついてきて、さっきもこうやって後をつけられていたんだ、とわかった。エミリは発声練習を始めたが、再び神託がリフレインしてくるのをこらえた。
「明日、私とカリンがランチに入ったイタリアンの店は十組待ちで諦めましたが、適当に入ったラーメン屋も悪くなかったですね」
 と言いたかった。カリンは背油マシマシのにんにくラーメンをすすりながら、初めて入ったけどけっこうおいしいねと言っている。
 このような神託もなされていた。エミリは、マユミに、
「いずれ私は祖母と会いますがあなたは会えません」
 とまた別の日の通学路で手鏡を見させられて言った。マユミは、
「エミリちゃんの神託は、私の意志が憑依されているだけじゃない。カヨコさんと同じじゃない。助けて……」
 とすがったが、エミリにその意味がわからず、茫然とするしかなかった。
 神託はほとんどマユミから聞かされたものだった。だからエミリにとってはマユミが神託を発しているようにしか見えなかったが、マユミがメッセンジャーをやっている限り、エミリには害がなかった。
 しばらく経ってマユミが死ぬと、メッセンジャーはいなくなり、エミリはただときどき奇声を発する人になっていた。カリンはそれを不気味がらないのが不気味だった。
 カリンが過労で倒れてお見舞いに行った日、知っている病院だと思った。神託が下される場所。カリンはエミリの顔を見るなり、
「私がマユミさんのメッセンジャーだったと言ったら怒る?」
 と言った。詳しく聞いてみたい気もしたが、どうでもいいと返事した。思い返せば、自分の言葉はカリンによって教えられていた。
 そうやって何人ものメッセンジャーがエミリの前にはいたんだと思う。そのことにエミリもメッセンジャー自身も気が付けなかった。
 扉の奥から、看護師が
「時間です」
 と言った。
 手術室にはエミリとカヨコが麻酔で寝かされていた。私が、そこにいる。私が目の前で眠っている。
 看護師が、
「エミリさんの記憶を思い出されていましたね、先生。私、メッセンジャーだから、それをお伝えしないとと思っていました。早く、エミリさんとカヨコさんの脳を入れ替えてください。先生、エミリさんのことを我がことだと思いましたよね。そういう神託、全部先生ご自身がおっしゃっていましたよ。そして、こうしてエミリさんを見たら自分だと思うからそれを忘れるようにお願いしました」
「脳を移植して、エミリがカヨコになってカヨコがエミリになったらどうなる?」
 私はマスク越しに聞いた。
「先生は言いました。けっきょく私が憑坐であることに変わりはない、と。こうして、みんなが憑依され続けるだけだって。先生にとって、神託になりました?」
 私は頷いた。もしかして、ずっとエミリであったのは、エミリの断末魔だったのかもしれないが、きっとこの手術を終えてもエミリはずっとどこかに居続ける。そのことが絶望したのかもしれない。
 私はエミリの頭頂部にメスを入れた。それから記憶がないからきっと神託を私は発し、気が付けば内視鏡でカヨコの部屋を思い出していた。

 

「油井くんのおとうと」(ル・パ・ラ)

 油井くんがぼくの席に来たのは四限目の授業が終わった後だった。ぼくは鞄から弁当を出して食事を始めるところだった。いつものようにノートを借りに来たのだと思い「ほら」と渡した。
「ありがとう」油井くんはノートをパラパラとめくった。
 公民の授業では現在、日本国憲法を扱っている。
 
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

 

 先生は大日本帝国憲法との比較を通して天皇の地位が戦前・戦後でどのように変遷したのかを概説した。
 油井くんは大学受験に使用する科目かどうかで居眠りしていい授業を選り分けており、公民はその筆頭だった。
「汚すなよ」
「明日返すよ。でも用件はそれじゃないんだ」
 人目をはばかる口調で油井くんは言う。「この後、テラスに来てくれないか」
 言われた通りにテラスへ行き、キャッチボールをする生徒を避けて奥に向かった。ぼくよりも一足早く昼食を終えた油井くんがフェンスに片足立ちでもたれかかっていた。
「あそこに森口いた」ぼくは背後にジェスチャーした。
「復帰早いね。もう二週間経ったんだっけ」
「じゃない? 三浦はまだ休んでるのにな」
 ぼくは油井くんの横に並んだ。曇り空でもなお遠方に広がる山の稜線が薄っすらと見えた。学校、と言うより駅に近づくにつれ、雑居ビルが増え、窓の向こうや屋上でたむろする人々の姿がここからだと丸見えだ。ぼくの与り知らぬところで事態が取り返しのつかないことになっているのではないかという不安が胸によぎった。
「深刻な話?」だといやだなと思った。
「いや」
 油井くんは腕時計に視線を向け、
「家に手紙が届いたんだ」
 全国の学生を対象としたアンケート調査の依頼用紙であった。調査にご承諾いただける場合には下記の電話番号に連絡してほしい。ご都合のよろしい時間帯に調査員がご自宅に訪問し、十五分程度その場でご質問させていただく。終了後には謝礼もお渡しする。
NHK世論調査みたいなやつ?」
「ナントカ総合研究所って言ったかな。調べたところシンクタンクっぽい」
「詐欺ではないのね」
「話の要点はそこじゃなくてね。宛先が〈油井卓也〉っていう誰とも知らぬ名前だったんだ」
「一人っ子だっけ。どう間違えても篤史がタクヤにはならないな」
「間違いなくうちの住所だったんだよ。ということはさ、こういう手紙って何らかの名簿とか住所録をもとに送ると思うんだけど、そこにはうちの住所に〈油井卓也〉っていう存在しない人間の名前が登録されているってことになるでしょ。気持ち悪くてさ」
「そうなるか」
「というのが、半年前の話」
 ある日のこと、油井くんが務める図書委員会の活動で、二人一組になって朝礼の時間に各クラスに来訪し、読書習慣の呼びかけを行うことになった。自分の担当するクラスに推薦図書を一か月の間置くことができるので、布教したい本のリストを作るのが楽しかったという。
 事前に委員会で集合することになっていたので、いつもより早い時間に家を出たのだが、その日はゴミの回収日にあたり、ちょうど近所の人がゴミ捨てに出る時間帯だった。
「いってらっしゃいね」と声をかけられ、振り向きざまに挨拶を返すと声をかけた隣の家の主婦がはにかみを見せ、
「篤史くんだったの。私てっきり卓也くんいつの間にこんな大きくなったのとびっくりしたのに、なんだごめんね、いってらっしゃい」
「咄嗟のことで言い返すこともできなかった」
「何歳くらいの人?」
「いやたぶん痴呆じゃないよ。うちの親よりも若い」
 フェンスから離した手を顔に近づけたら金属の臭いがした。
「このことがあってなるほどと腑に落ちたのね。卓也っていうのはおれの弟なんだな、と」
「これ、怖い話?」
「いや」
 油井家には油井くんの他に子供はおらず、亡くなった兄弟がいたこともない。しかしこうして〈油井卓也〉という存在を意識してみると、小さい頃の自分には確かに弟がいて、一緒に遊んでいたような気がしてくる。
 弟、と意識した時に浮かぶのは後ろめたさだった。兄の特権をかざして随分と意地悪なことをしたと思う。お互い思春期に入って以降は、同じ家で暮らすのに随分と疎遠になった。ここ数年、まともに口を利いたこともない。何しろ弟のなすことすべてが気に食わないのだ。それならば無視するのが一番だ。
「だから、弟がいるということを忘れていたのかなと思ったんだよね」
「でも、いないんだろ?」
「うん、いない」
 ところが油井くんが改めて家の中を見渡すと、いたるところに弟の痕跡を見出すことができた。
 小学生の頃に遊んでいた『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を突然やりたくなったので、油井くんがXbox 360発掘のため物置部屋に入ると、カーテンが閉ざされ、埃の舞う熱のこもった部屋だったが、間違いなくそこは弟の部屋だった。所狭しと置かれた荷物は間違いなく油井くんと両親の所有物で占められていたが、配列によって一つの秩序を形成し、その部屋の住人の存在が示唆された。弟が戻ってくるのではないかという恐怖に襲われながら、油井くんはゲームを探した。
 見つけ出したXbox 360をテレビに接続し、入力を切り替えるとトップ画面が表示された。ハード一機に対してアカウントを複数個登録できるのだが、「アツシ」の他に「タクヤ」というプロフィールが登録されているのを発見した。
「なるほどね」とぼくは言った。
「言いたいことは解る」油井くんは言った。「イマジナリーフレンドだって言いたいんだろう」
「弟だからフレンドじゃないかもしれないけどな。小さい頃の油井くんは一人で過ごす時間が長く、空想上の弟くらいしか遊び相手がいなかったんだろう。時を経てひょんなことから復活したイマジナリーフレンドが現実化して暴走しているに違いない」
「そういう物語に回収できるなら話は早い。しかしね、どうやらおれ個人の問題とは言い切れないみたいなんだ」
 油井家では母親が作った夕食を家族三人で囲んで食べるのが普通だった。
 あまりも自然なのでそのことに疑問を覚えることなくこれまでを過ごしてきたが、油井くんの前の席には誰も座らないのに、そこには一人分の食事が必ず置かれていたことに、油井くんは今になって気がついた。誰も箸をつけないので食事が終わると料理は廃棄された。母親はいつも一人分の料理を余分に作っていることになる。
「親に理由聞きなよ」
「いや、気まずいよ」
 油井くんには体制側に従順なところがある。いや体制的/反体制的という二項対立ではなく、二項対立の土台を無効化するような共同体の言説空間に対して油井くんは非常に親和的だと言うべきであった。
 それはともかく、油井くんの言う通り、問題は油井くんではなく一家に求められるのかもしれない。
 油井くんは他にもいくつか気がついた点を話してくれた。洗面所にある歯ブラシ立てには予備の歯ブラシが一本入っている。それは弟の分ではないのか? 風呂に入るタイミングを他の家族とバッティングしないよう調整する際に、念頭に置いているのは両親とは別のもう一人の家族ではなかったか? 誰もが寝静まった後、水を飲みに台所に行くと水道が流しっ放しになっていることがよくあるが……しかしいずれも傍証どころかただの印象に過ぎない。
「弟がいる気配は感じるの? 見られている感覚とか、物音でもいいんだけど」
「そういう具体的なのがないから困っている。何かに取り憑かれているのかな」
 それで思い出したのは幼かった頃のアガサ・クリスティーが姉のマーガレットと興じた“上の姉さん”という遊びである。マーガレットが言うには、クリスティーの家には年上の姉がいて、この姉は頭が狂っているので洞窟の中に住んでいる。たまにクリスティーの家にも来るのだが姿かたちはマーガレットと見分けがつかない。しかしその声だけはまるで違う。実際はマーガレットが脅かして恐ろしい声で喋っているだけなのに、クリスティーには本当に上の姉がいるように思えた。
 これに似たことが油井家でも行われているのではないか。
「弟がいたという油井くんの記憶は正しい。両親のどちらかが遊びでタクヤという人格を作り上げ、親子ではなく兄弟という間柄で遊んだことがあったんだろう」
「それが今でも続いていると?」
「サイコサスペンス路線のお話だね」
 飛んできたボールがフェンスに当たり、ぼくらのところにまで震動が届いた。
 生まれる前に亡くなった弟がいたという過去があってもいい、と思ったがそれは口にしなかった。物語の要請上、油井家が抱えるトラウマを突き止め、癒す必要がある。
「まず家族でちゃんと話し合うことをお勧めするよ」
「おれはカウンセリングしてもらいたいわけじゃない」
 お気に召さないようならば、別の物語を用意するまでだ。
「ならば宇宙人説でも未来人説でもいいけど、油井家の記憶を捏造し、宇宙人/未来人が家族として長いこと潜伏していたという説はどうだろう。目的を達成した宇宙人/未来人が油井家を去る際に記憶の消去が不徹底だったことから油井くんは後遺症に悩まされているんだ」
 あまりにも古典的な話で我ながら羞恥を覚えた。
「個人的にその説はいいかもしれないと思った。だけど申し訳ないことに」と言って油井くんはスマートフォンを取り出した。「現在進行形で、弟の存在が示唆されているんだ」
 メールの送信ボックスを見ると、ランダムなアルファベットのメールアドレス宛(毎回異なる)に「わかった」「ok」「うん」といった無味乾燥なメールが一週間に一通ほどの頻度で送られていた。送信できているということは、確かに存在するメールアドレスなのだろう。
「これ、どうやら弟に送っているっぽいんだよね。自分のことなのに変な言い方だけどさ」
 最新のメールの送信日時は一昨日の昼だった。
「他の説明はないかな」
 油井くんのお客様気分にうんざりする自分がいるのと同時に、この事象を的確に捉える決定的な仮説を提示したいという衝動にぼくは突き動かされていた。
「座敷童子っていうのはどう? 民俗学路線。関東地方に伝承があるのかどうかは知らないけど、日本全体が均質化した現代ならそんなことは気にしなくてもいいのかもしれない」
「なるほど」
 油井くんはこちらが解説するまでもなく自身の力で咀嚼する様子を見せた。その一方では安易な説明である気がしてぼく自身は納得していなかった。
 雲間から階のように伸びた日の光が徐々にこちらへと向かって進むのが見える。
「となると、おれはどうしたらいいのかな」
「負の感情を考えなくて済む。楽観的に構えていればいいよ。座敷童子のいる家は栄える」
リーマン・ショック以来、うちの家は決して裕福じゃないんだけど」
「座敷童子がいるからこそ現状を維持できているのかもよ」
「父親の年収は下がる一方と聞いているけどなあ」
 予鈴のチャイムが鳴った。
「座敷童子であれば追い出す必要もない」
「追い出そうにも実体が見えないんだが」
 長らく保っていたフラミンゴの体制を解除して油井くんはフェンスから身を離した。
 太陽光線の帯は、校舎へ届く前に雲散霧消した。
「でもありがとう。話をして気が楽になったよ」
 教室に戻りがてら、ぼくは油井くんに尋ねた。
「結局、油井くんはぼくに何を相談したかったんだ?」
「相談があるとは一言も言っていない。ただ単に、弟の話を誰かと共有したかったんだ。おそらく<油井卓也>という存在は、おれの一家だけが抱え込んでいていい問題ではない」
 その直観は正しい気がした。

 週末を挟み、月曜日に会った油井くんは見るからにおどおどとした様子を見せていた。昼休みが訪れると油井くんはすぐに教室を出た。よく話すという間柄ではないが、午後になるまで一度もこちらを見もしないのは不自然だった。
 六限目の体育の時間は屋外でのサッカーだった。相手チームでキーパーを務めていた油井くんを捕まえ「どうしたんだ」と尋ねた。
 油井くんはボールの行方から目を離さずに「ああ……」と返した。
「隈がすごいぞ」
「朝方まで眠れなかったからね。五時頃に寝たはいいものの浅い睡眠で、怖い夢を見たから」
「何だ、夢を見ただけか」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ」
 遠方で繰り広げられるボールから視線を外した油井くんが週末の出来事を話し出した。
「先週<油井卓也>のことを話しただろう。最終的に座敷童子に落ち着いて、おれは安心したんだ。誰もいない席に食事を配膳する母親の姿も、不気味ではあるが、神様にお供えしているようなものだと思えば気にならなかった」
 ところが座敷童子という説明では捉えきれぬ余剰があることにも油井くんは気がついていた。例えば『遠野物語』に収録された民話を語った佐々木喜善によれば、座敷童子には人間の運不運を左右するような、得体のしれない怖さがある。弟のことを考えると湧く感情が後ろめたさであることからも、無意識のうちに何かを抑圧している気がしてならなかった。その不安に油井くんは耐えきれなかった。
 手がかりとして思い浮かぶのは、中学入学前まで暮らしていたマンションだった。今の家から数駅しか離れていない。マンションに住む子供たちと一緒に秘密基地ごっこをしてよく遊んでいた。その遊びに弟が加わっていたような気がしてならないのだ。
 秘密基地に行けば、弟の存在に関わる決定的な証拠が見つかる予感がする。
 マンションの鍵をなくした際にスペアキーを作成したものの、作成直後に鍵が見つかったので、スペアキーが不要になった。転居に際して管理人に鍵を返却する必要があったが、家族のみんながスペアキーの存在を忘れていたので、油井くんの手元には鍵が一つ残された。
 この鍵を使ってマンションに侵入し、秘密基地をこの目で確かめたい。当時のまま残されているとは思えないが、それでも現場に行くことで記憶が触発されるかもしれない。
 日曜日の午前中に油井くんは電車に乗ってマンションに向かった。
 駅を降り目に飛び込んできた風景は油井くんに眩暈をもたらした。たった数年のことなので街の様子や建物にほとんど変化はなかったが、むしろ何もかもが記憶通りに配置されていることにより、寄る辺なさが一層強化された。
 オープンと同時に油井家が入居したマンションも今では築十年を越し、外壁が全体的に薄汚れて見えた。引っ越しの後、マンションに訪れたことはなかったが、エントランスに入ると当時の習慣通りに身体が勝手に動く。進行方向を左に曲がり、油井くんは集合ポストの前に立ち竦んだ。209号室のダイヤルを回してみたが、番号が変わっていて開かなかった。
 日曜日だからか管理人室には誰もいなかった。エントランスの中央に据えられた卓がオートロックの操作盤となっている。鍵を差し込むと問題なくまわってドアが開錠された。
 ここまで住人とは出会わなかったが、見つかった時に何と言い訳するか油井くんには準備がなかった。扉を抜けても引き続き共用部となっており、そこはソファが置かれたスペースで、理事会や総会はこの場所を使って行われる。
 その先へ行くとエレベーターがあるが、油井くんは乗らない。一階の通路の傍ら、砂利の敷かれた通りには、階段の陰になって見えにくいが、かまくらのように白い壁で囲まれた空間がぽつんとあった。子供たちの他、この場所の存在を住人は誰も知らない。だから油井くんや他の子供たちはここを秘密基地としていた。各自が持ち込んだ本や玩具があるから五人ほどの子供が暇さえあればここに入り浸っていたこともある。非常食に毛布、懐中電灯が置かれ、油井くんの計算では三人ならば一週間程度をここで生活することができた。
 ところが今ではもうその痕跡は何も残っていない。中学受験のため塾に通うようになってから、油井くんが基地に訪れる機会はなくなった。親から遊ぶ頻度を減らすよう言われたからだ。しかしそれより以前、誰かがここを自転車置き場に使うようになってから、自然と人の集まりが悪くなり、遊びが終焉に向かったことを油井くんは思い出した。
 しかしこの基地で遊んでいた時代には弟との仲も悪くはなかった。マンション全域を舞台に大声で遊ぶものだから、たびたび知らない大人に叱られることもあったが、そんな時、隣にいるのはいつも弟だった。
 偽りの感慨にしばし耽っていると、油井くんは基地の裏に地下室があることを思い出した。そちらにはボイラー室があると言われ、管理人しか入ることはできなかったが、こちらも同様に大人の目から逃れることのできる空間であったので、子供たちは薄暗い階段に座り込んでDSで遊んだりしていた。
 自然と油井くんの足は地下室へと向かっていた。一段一段降りていく。階段には小石が散らばり、子供用の靴が片方転がっていた。そもそもがマンションの一階は直射日光がなくて光量が足りないのに、五段も降りればここはもう真っ暗で、辺りはひんやりとした空気に満ちていた。
 一番下まで降りてみたはいいものの、この場所に来ることは目的に含まれていなかった。人の気配はどこにもなく、逢魔時に一人、公園に取り残された時の記憶が油井くんの中で換気された。心霊的な恐怖を覚えたわけではないが、一刻も早くここを立ち去るべきだと脳は指令する。ところがまさかボイラー室のドアが開くとは思わなかったから、考えるよりも先に暗闇の中へ足を踏み入れたのだが、
 バシン、と油井くんの顔に真正面からボールがめり込み、油井くんはそのまま倒れ、保健室に運ばれてしまった。
 ぼくは試合を無視して私語していたことを教師に叱られた。授業の後、着替えを終えてから保健室へ行くと、白いベッドに寝かされた油井くんに意識はあるようだった。もう少し休んでから帰ると言うが、先ほどの会話の続きをする様子でもなかったのでぼくはお先に帰宅した。

 翌日の学校を油井くんは欠席したが、水曜日は元通りの姿を見せ教室に現れた。大した怪我でもなく、心配して損をした。
 昼休みに油井くんはぼくの席に来て「これ」と言ってノートを渡した。
「ありがとう。長らく借りていたよ」
 先週貸した公民のノートだが、何となく全体的によれていて、背表紙の糸がほつれているように思える。中身を開くと薄茶の染みが全ページに渡って広がっていた。
「何だよこれ。汚すなって言ったじゃないか」
 顔を上げると油井くんの視線とぶつかった。油井くんの表情には申し訳なさの欠片もなく、一切の感情を込めない顔でこちらを凝視していた。
「<油井卓也>を消去したんだ」
 どういうことだ。
「色々話を聞いてくれたからね、一応報告しとこうと思って」
「消去って何だ」
「弟の痕跡を全部消すことにしたんだ」
 物置部屋の荷物は全て破壊して処分した(昨日はこの作業に一日を費やした)。弟の席に母親が食器を置くと、テーブルの上から料理を薙ぎ払った。アンケートを送ってきた調査会社には卓也という名前を上書きして篤史と登録してもらった。その他、昨日一日でやったことリストを油井くんは列挙した。
「やっぱり家に知らない誰かがいると思うと不気味じゃん?」
 油井くんは晴れ晴れした顔を見せた。もはやノートについて問う気力は失せた。
「まあ、油井くんがそれで良いならこちらとしても文句はないけど」
「文句ある奴いたらぶっ殺す」
「え?」
太陽フレアが地球に直撃するらしいよ。電磁波で通信障害起こるんだって。まあ」
 油井くんがポケットから取り出したスマートフォンの画面は罅に覆われていた。
「使わないからいいんだけど」
 油井くんの気味の悪さをクラスの誰も気づいていないのだろうか?
「それよりも油井くん、サッカーの時に中断した話の続きを聞かせてよ」
 取り繕うかのようにぼくは油井くんに会話を投げた。
「地下室のドアが開いて、その後どうなったんだ」
「もういいじゃない」
 油井くんはこちらを蔑むような視線を向けて、
「話題に出すから弟はいい気になるんだ。気にしないのが一番だよ」
 もはや油井くんと話す理由はないと思った。

 まずい、非常にまずい。明日からの中間試験、どうなってしまうのだろう。
 まるで勉強が捗らない。授業の後、すぐに帰宅することができたのに、集中力が拡散して仕方がない。
 理由は明確で、家に向かう途中、何の前触れもなく、空から魚介類が降って来たのだった。ファフロツキーズ現象。ぼくが確認できたのはサンマ、エビ、タコ。落下物の多くは衝突後につぶれ、路面は体液と内臓でぐちゃぐちゃだった。お天気雨のように一時的な出来事であったが、制服がぬめって気持ちが悪かった。麻痺する身体で地面を這うタコを自動車が轢き殺していく。帰宅後、即座にシャワーを浴びたが、生臭さはしばらく抜けないと思う。ファフロツキーズの興奮が数時間を経てもまだおさまらない。
 クラスの連絡網はこの話題で持ちきりだった。誰かが言い出した「明日で世界が終わるらしい」という予言も、あながち法螺とは言いきれないだろう。
 予兆はあった。最近、テラスでぼんやりと空を眺めていると時折バグったかのように天球が蛍光色に切り替わる瞬間があり、大抵は一瞬のことだから錯覚ということで済ませていたが、世界がほころび始めていることにみんな気がつき始めていると思う。
 明日世界が終わるなら、試験勉強をしたって何の意味もない。どうせ他の人も勉強どころではないはずだ。
 世界がこんなことになってしまった原因は、油井くんが<油井卓也>の対処を誤ったことにあると思う。
<油井卓也>は世界のシステムの中の外部としてのみ存在する、言わばゼロ記号なのだ。この世界のシステムを閉じるために召喚され、体系に組み込まれた一つの外部。神と言ってもいいが、超越的な頂点、権力そのものではない。ゼロは数字だが、その序列の外にある。不在の打ち消しというあり方により構造を支えるゼロ記号こそが、油井くんの弟なのではないだろうか。
 だとすれば油井くんが<油井卓也>を消去したことにより、ゼロ記号は失われたことになる。それなりの方法論や根拠に基づいたやり方で行わないと世界の秩序が不安定になるのは当然だと言える。もう一度<油井卓也>を捏造すれば、ゼロ記号は復活するのだろうか?
 解らない。あれ以来、油井くんと口を利くのをやめたが、向こうもこちらに対して用事はないようだ。弟の痕跡を再現するよう連絡すべきなのかもしれないが、どうでもいいという気持ちが上回る。
 疲かれたので少し眠ることにした。

 

「『幽霊人間の恋』」(イッキューTOKYO)

 あなたが空を飛んでいるのを見かけたのは去年の今頃だった。暦の上では秋だというけれど、まだ残暑厳しい八月のこと。空を飛ぶ人間を見かけたのは、なにも初めてのことではない。私の視界には飛んでいる人間もいれば地面に横たわっていたり、一部が埋もれてさえいる人間もいる。正確にいえば、これらは幽霊と呼ばれるものだと思っている。推測でしかないのは、自分以外の他人とこれらを共通して認識したことがないからだ。幽霊はそこいらじゅうにいて、家に入ってきたりしても、出ていけと目で伝えれば黙って外へ出ていく。幽霊に自我はないらしい。私は虫に似ていると捉えている。ただ何か彼らなりの法則や本能に従って動いているだけで、私をあえて驚かすつもりはないようだ。踏みつけてもすり抜けるし、とにかく目に見えているだけで害という害はない。生きている人間の社会を脅かすようなものでなく、ただ共存しているといえばいいだろうか。交流をしないだけ。

 あなたもそれら幽霊のひとつだと一瞬、誤解しかけた。ただしっかり、目が合っていた。意識した途端に、ありふれた幽霊たちとあなたが決定的に違うことを理解できた。あなたはにゅるりと私の前に下りてきて、照れくさそうに私にこう言った。

「お茶、しませんか。」

 私もあなたに興味があった。初めて出会った意志疎通のできる幽霊だった。人間は空を飛ばないが幽霊なら空を飛ぶ。あなたはあたかも人間のようなのに、空を飛んでいた。そして私に話しかけた。そんな幽霊人間がいるとは思いもしなかった。あなたに触れてみると、感触は無くその身体をすり抜けた。それなのに話ができる。他の人にはやはりあなたは見えていなかった。あなたに話しかけるのは私の独り言と思われるので、恥ずかしくテラス席のあるカフェを選んで外に座った。暑いなか外のテーブルを選んで座ったのは私たちだけだった。飲み物は私のぶんだけ買った。幽霊人間は喉すら乾かない。

 あなたは物心ついたときからこの姿だと私に話した。家族もいないし、最初から現在の大人の姿形をしていたそうだ。桜と雪を二回追ったから、おそらく生まれて二年ほど経つのだと言った。私はあなたに夢中で対面していたし、あなたのほうもときどき目をそらしながらも私にあれこれ話してくれた。そしてときどき緊張を崩したようにあははと笑った。

 カフェを出て、ショッピングモールをぷらっと回った。服屋の店員さんは私にだけ声をかけてきた。モールの映画館ではアメコミのヒーローものを選んだ。あなたは自身の席代も自分で払いたがったけれど、どちらにしろお金を持っていないようだったので、割り切って隣でただ見してもらった。

「あなたもこの世界であんなヒーローみたいなものかな。」

 冗談を言ったつもりだったけれどあなたは少し悲しそうにした。幽霊に対する失言だった。自在に普通の人間と行き来できてはじめて笑える話だった。ごめんなさい。

 次のデートでは海へ行った。電車で四十分ほど揺れれば海岸そばの駅に着く。残念ながら悪天候だったけれど、かえって人目を気にせず話ができた。海を目の前に石段に腰かけながら、ふとあなたと手を重ねてみる。

「ありがとう。」

 行為に気付いたときあなたは言った。ありがとう僕を認識してくれて、とでも言うかのように。

あなたに心を通わせるうち、不思議なことに幽霊をあまり見かけなくなっていった。街が歴然と静かに見えた。会社のデスクに座りながらも、目の前の画面の向こうにあなたを想像して見ていた。ため息が私を包み視界を薄く遮った。周りの声が遠くなり、同僚の呼びかけにもすぐに反応できないほどだった。

「ぼうっとしてるよ?大丈夫?」

 ぼうっと。大丈夫だけれど、おかしいのは確かだ。これまで経験した恋愛のいくつかを思い返した。それらは形だけのものばかりだったように感じる。言われるがまま流されるままの恋真似。あなたに出会った瞬間、私の心はその恋の手綱を離してしまった。走り出す心。浮かび上がるあなた。鮮やかに降る通り雨が、きらきらと陽を浴びている。雨に濡れるたびドレミの音が弾けて私たちを祝福した。格好よく見えた他部署の同期が窓の向こうに見えた。あの彼は格好良いだけの人になった。私にはもうあなたがいる。

「結婚しようか。」

 週末のデートを繰り返し重ねたころ唐突にあなたは言った。結婚って?考えたことがなかった。そもそも幽霊と結婚するという発想が、私たちに存在するだろうか。さも当然のようにあなたが言うので面食らってしまった。結婚したい。気持ちのうえではそのくらいに、好きだ。この人には住民票どころか他人の認識すら無いのに。口約束の結婚ごっこしかできないのに。それは甘い夢みたいなものだ。

「僕は本気だよ。君と結婚がしたい。」

 シャイなあなたが真っすぐに私を見て言うので、その決意を否定することを私にはできなかった。

「うん。」

 小さく頷くとあなたは安心したように、にこりとした。

「しよう、明日。大安なんだって。」

 明日、大安。幽霊にもあった六曜の概念。私は明日から既婚者になるのか。おかしみと幸福。私は明日あなたと結婚する。野良猫が私のふくらはぎに顔をこすりつけた。野良犬たちが私たちを囲んではしゃぐ。野良鳥が一斉にハミングする。野良象が自慢の長い鼻で私を持ち上げ背中に乗せる。あなたもそれにひょいと飛び乗る。夢のような世界。ここにはあなたと私を邪魔するものなどいない。

 

 夢を見た。あなたが遠くから手を振っていた。胸が高鳴ったと思ったらぎゅっと苦しくなって、地面に倒れこんでしまった。視界のコンクリートがぼやけていく。あなたの声は聞こえない。あなたの姿は見えない。そして気を失う。そんな夢。

 

 夢を見たあとから私はあなたを見失ったまま。あなたが消えた。

 ビルとビルの風吹き込む隙間。側溝の真っ暗闇。流れる電車のガラス窓。出勤前のテレビの街頭インタビュー。LINEの友だち一覧。夕暮れどきのカラスの呼びかけ。信号無視が蔓延る夜中の横断歩道。アパートの外。浴槽の中。おばさまがたの井戸端会議。コンビニ店員の一人一人。あなたがどこにもいなくなった。一年半前にはあなたのいなかった日常が当たり前だった。それなのに愛を知ってしまった私の孤独は、底なしに深い。

 花火の音が聞こえてきた。そういえば今日は街の夏祭りだ。部屋はずっと涙で浸水している。棚の最下段の本はもれなく駄目にした。室内で長靴を履くのにも慣れた。まとわりつく悲痛をそのままにずずずと玄関へ向かった。埃かぶった駐輪場の自転車に鍵を入れた。自転車からサイレンのような警告音が鳴る。バッタを模した変身ヒーローさながら、もくもくと跡を煙らせて河川敷へと走る。あなたもヒーロー。私もヒーロー。

 花火が弾けるたび、私のなかで段階的に腑に落ちていった。あなたがもういないこと。あなたが私と出会った喜び。私の身体がどうやら消えかけていること。最後に打ち上がった大きな華に、あなたの笑顔が重なった気がした。

 気付くと私は夜の宙を漂っていた。透明人間になったように、誰にも認識されない。私も幽霊人間になってしまっていた。

 

 あなたはシャイだったかもしれないけど、最初から私に照れていたわけではなかったのだろう。罪悪感と、それにやましさ。あなたは現実世界に戻れただろうか。呪いか、はたまた伝染病か。私にそれが移ると、あなたは解放されるのか。呪いが解けたら果たして人間に戻れるのか。それとも存在ごと消えてしまうのか。

 私もあなたを見習って空を飛ぶ。かつての私のような誰かを見つけるまで。私のような恋をしてもらえることを願いながら。

 私の恋は終わった。命まで途絶えそうな今の姿。あなたに出会ったせい。私は愛より憎しみに、溺れてしまいそう。これが連鎖していくのだとしたら始まりは誰のせい?何のせい?誰かを騙し落とすのなんてたやすい。隣のその人が君を騙していない保証なんて、これっぽっちもない。私のように世を、人生を憎しんだり。この世に不幸あれ、と。小汚ねえ世の中で私なりに足掻いてきた結果がこれだ。かりそめの愛だの恋だのにうつつを抜かして。

 私はもう自殺すらできない。もうこれは気が!狂いそう!!!

 

「unrest」(fesaki)

自作解説

「系譜」(きけりな)

 露骨に楳図かずおの「洗礼」のオマージュとして書きました。ホラーを小説として書く場合、ヴィジュアル的なイメージにはまったく頼れない。例えばホラー映画では幽霊を立たせるだけで「ホラー」になるかもしれないが、小説においては「幽霊が立っている」と書くだけでは十分になりきれず、そのように書かれることが、異化作用を引き起こす必要があると思いました。そうなると、より存在論的な、自分にも世界にも根拠などない恐怖に行き着くしかないと思ったのですが、そもそもの崩れるはずの土台をうまく構築できなかった気がします。結果、不気味で思わせぶりなことを言う人たちに囲まれて、混乱する、という程度の話に収まった感触はありますが、それはそれとしてホラーなシチュエーションかもしれない……。柳田国男的な文体でヴィジョンを描写できれば、さらにそこを破壊することも可能だったかもしれませんが、技量的に難しかったです。文体としては意識の流れ的な叙述と憑坐としての記憶の混乱はマッチしていたかな、と思います。象徴主義的な部分は、むしろもっと徹底してもよかったかもしれません。ホラーにはキーアイテムが必要だという固定観念が(笑)。頑張って楳図かずおの認識論(追いかけられたらホラーで追いかけたらコメディ)的なアプローチから、その認識の土台を解体されることでもっと根源的な恐怖にアプローチする手法自体はラディカルだと思いますし、そうしたかったです。それにしては、不条理の域でしかなかったのが、思い残すことではあります。

 

「油井くんのおとうと」(ル・パ・ラ)

 テーマが「ホラー」と決まった時に自分の中でいくつか条件を決め、
・フェイクドキュメンタリー風はNG(流行に乗るのは安易だから)
・読者を怖がらせることは意図しない(答えが解らないから)
・因習や地域に由来する恐怖はNG(自分にとって一番気になるテーマであるものの安易なのでダメ)
・構造化への意志を持つ
 の4点を目標にしたが、「ホラー」とは何なのかという問いにはあまり応答できない話になってしまいました。
 構造化の意志を持つというのは、ホラーに対して興味のある切り口は構造だからです。ただ実作で取り組もうにも良いアイディアが浮かばず、あえてモンスターを出してみるか、とか、心理的ホラーとかいろいろ考えたものの、存在しない弟、というのが何となく怖い気がして、これを手掛かりにすることにしました。
 そしてディスカッションが好きなので、不可解な現象に対して様々な仮説を並べてみましたが、ホラーという小説空間の雰囲気として適当なのかは我ながら疑問。メタな位置に立つのではなく、没入が大事なのではないかと書き終えて思いました。
 ゼロ記号の話は柄谷行人松本健一笠井潔天皇制 抑圧的融和の弁証法」という鼎談を参考にしました。
 世界が終わる描写をもっと頑張りたかったですがアイディアが足らなかったです。

 

「『幽霊人間の恋』」(イッキューTOKYO)

 書き始める前に川上未映子の『愛の夢とか』をぱらっと眺めて、「あ、こういうラフなのでいいのか」とハッとしました。小説っぽいものを書こうとしなくていいし気取らなくていいから、自分の生きてきた感覚を入れ込んだ物語にしたいと思いました。
 普段、エッセイ的なものを好んで読むのでエッセイっぽさをつい小説内に持ち込みたがるところがあったのですが、今回のテーマが「ホラー」であるというところで、ちゃんと描写が物語的に仕上がった気がします。
 ホラーっぽさがどこにあるのかというと、あくまで私に書けるホラーがどういうものか模索したその過程を見てもらうしかないのですが……。
 幽霊が出てくる。主人公がそれと恋愛する。幽霊が消える。私も幽霊になる。幽霊になったところで自分がどうすべきか主人公は考えます。そのとき、婚約相手が私に近付いてくれたのが本音か嘘か確かではなく、傷つく。そして自分が、いつか出会う誰かを同様に傷つけなきゃいけないかもしれない。そのときに裏切るような嘘をつくかもしれない。たとえ、本気でまた恋をしてしまっても、成就すればそれはそれで相手との別れがきてしまう。別れがきて、人間に戻るのか消えて無くなってしまうのかも成就しなきゃ分からない。まず相手が見つからないかもしれない。絶望して苦しくて嫌になっても、身を投げて自殺することすら幽霊になった自分にはできない。
 そんな内面的な部分をホラーと解釈して書いてみたのが、これでした。ポエミーなのはデフォです。(ふぉっふぉっ

 

合評会

(きけりな)

【「油井くんのおとうと」について】
 初読時の印象は「日常の謎」みたいだな、ということでした。素朴ですが、「油井卓也」という「謎」があり、それに対してディスカッションをして論理の内部に回収するというプロセスがミステリ的だと感じました。同時に、その観点は、表裏一体的にホラーの構造を召喚していました(ホラーとして書かれたのだから当然ですが)。つまり「謎」の構造化を目指す次元においては、前提として、構造が自明視されていない状況を想定することだからです。存在あるいは非存在の構造が規定されてないという「不安」はすなわちホラーと換言できると思います。
 ただし、この小説が構造化がなされて終わったのか、構造化がなされず終わったのか、解釈が難しかったです。
 まず、出来事を整理すると、〈油井卓也〉という「痕跡」が出現しました。それを物理的な手段で破棄する。その後ファフロツキーズ太陽フレアなどの現象が起きる(世界の終わり)。「ぼく」はそれらの現象が〈油井卓也〉の対処を誤ったせいだと考えている。ポイントは、〈油井卓也〉の操作がこの世界の内側で可能なのか、また、可能/不可能だとして、「世界の終わり」と〈油井卓也〉に因果関係があるかだと思います。
 この「ぼく」の思考を受け入れるなら、世界の内部で「油井卓也の痕跡の削除」という行為を行った結果、ゼロ記号としてこの世界に組み込まれた外部としての〈油井卓也〉が操作された。その結果、「世界の秩序が不安定にな」った。この流れは一連の因果関係を持っていて、この小説において構造化が達成され「世界の終わり」がもたらされたと解釈できると思います。
 だけど読んでいて〈油井卓也〉の痕跡と「世界の終わり現象」は同じく、この世界内部の法則として、同列なのではないかとも思いました。つまり、「油井卓也の痕跡の削除」はこの世界内部のただの行為(現象)であり、外部の操作を行っていないのではないか。ならば、やはり、この小説は構造化がなされていて、「世界の終わり現象」という秩序が維持されていただけかもしれない。
 天皇制に関する議論には疎いのですが、大日本帝国憲法から日本国憲法へ「改正」されたことと、外部としての〈油井卓也〉が操作できるのかという論点はパラレルかもしれないと思いました。
 日本国憲法大日本帝国憲法改憲プロセスを経て制定されたことになっています。これは世界の秩序=憲法が自らの内部で、外部として規定した天皇を操作可能だったという理解でいいでしょうか。そこに、「油井卓也の痕跡の削除」による〈油井卓也〉の操作、その結果としての世界の秩序の変化と、憲法規定に則った改憲による「天皇」の操作、その結果としての改憲に重なる部分を感じました。
 あるいは、八月革命説という学説があります。ざっくり、憲法改正限界説の立場において、天皇主権から国民主権という限界を超えた改正において、ポツダム宣言の受諾が天皇から国民への主権の移譲し、大日本帝国憲法は効力を失っていたという「革命」が発生したと擬制し、大日本帝国憲法に基づいた改憲手続きは形式上のものであり、日本国憲法は主権者である国民が制定したとする学説です。
 前置きが長くなってしまいましたが、「油井卓也の痕跡の削除」と〈油井卓也〉の操作を結びつけない考えは、八月革命説と近しいものを感じました。
 つまり、単に世界内部で「世界の終わり現象」が発生したと考えるなら、八月革命説において、天皇という外部を仮構することは必須ではないのと同様に、〈油井卓也〉という外部の想定も必要ではない。「世界の終わり現象」が、あらかじめ世界に内在された因果(〈油井卓也〉と関係なく世界の秩序は「世界の終わり現象が発生するもの」)ではなく、世界の秩序の変化だととらえても、世界内部の「革命」を擬制すれば十分かもしれない。「ぼく」の思考を借りれば、「油井卓也の痕跡の削除」という擬制が有効だったということなのではないかと思いました。
 どちらにせよ、「世界の終わり」は小説における構造化の達成として読むことに、違和感はありませんでした。
 もしも世界の構造化の破綻として「世界の終わり」を解釈すれば、それはそれで成立するけど、すべての因果を否定する、半ば夢オチ的な結論となるかもしれません。
 もう一度ホラーとしてこの小説を読み直すと、やはり、世界の内部で世界の外部に位置付けられたものとアクセスしてしまった、という解釈が一番怖い気がするので、けっきょく「ぼく」の思考に寄り添うのがいいかな、と思いました。
 ディスカッションも含めて「ぼく」が丁寧に構造化を図るので、身も蓋もないですが、「そのまま読む」のがホラーと直結していた小説だったと思います。

 

(ル・パ・ラ)

【「系譜」について】
かなり怖い気がしました。
テクストの手触りに、小学生の頃、楳図かずお小林よしのりの絵で覚えたような気味の悪さを感じました。
憑坐と神託による人称と時制の違和感、あとはエミリに対するカヨコとマユミの台詞の相手が、エミリ個人からずれているような感覚。自分の作品の場合、読者を怖がらせることは最初からあきらめていたものの、「系譜」はだいぶ怖いなと思いました(というか、きけりなさんの他の作品も怖いなと思います)。
コメントするにあたり高橋明彦の『洗礼』論も読んだのですが、その点での咀嚼・解釈ができていないので自作解題的なコメント読みたいです。
自分の理解では、エミリ、カヨコが『洗礼』と違って孫と祖母(?)であるものの(母親は?)、手術台に寝かされて、脳の移植が示唆されている。これは露骨に『洗礼』で、「私/先生」は妄想の先生に該当。『洗礼』ではさくらという一人の人間の中にさくらと松子という二人の人間が同一化しているけど、考えてみれば妄想の産物である「先生」もいるわけで、さくら・松子・先生の三項の話でもあった。「系譜」では最終的に三項のお話であったことがわかりますけど、その解釈は単純化のし過ぎな気がします。
「憑坐」というのは天皇制のことかと思いました。『洗礼』は母娘の二項対立であるけど「系譜」では、エミリ・カヨコ間でやり取りされている何かは、過去、何なら太古から続いているように思えます(詳しくないですが、折口信夫でそういう話がある?)。

 

「構造化への意志を持つ」という部分への応答をしていただいているかと思い、うれしいです。
「だけど読んでいて〈油井卓也〉の痕跡と「世界の終わり現象」は同じく、この世界内部の法則として、同列なのではないかとも思いました。つまり、「油井卓也の痕跡の削除」はこの世界内部のただの行為(現象)であり、外部の操作を行っていないのではないか。ならば、やはり、この小説は構造化がなされていて、「世界の終わり現象」という秩序が維持されていただけかもしれない。」
この問いへの回答は自分でも難しく、「天皇制 抑圧的融和の弁証法」でも、ゼロ記号としての天皇をどのように解消すればいいのかという問いがあり、「油井卓也の痕跡の削除」が単に天皇制の廃止だとしたら、それはあくまでもこの世界の内側での行為で、それでは天皇制は解消されないだろうなと思います。このラインでいけば「世界の終わり現象」という秩序が維持」されたという解釈が強い。
というところから大日本帝国憲法日本国憲法改憲に関する議論はすごく面白いです。「八月革命説」は「〈油井卓也〉という外部の想定も必要ではない」ことから、作品としては弱くなる解釈だとも思いますが。
話は変わりますが、構造主義で有名な、レヴィ=ストロース親族の基本構造(直接は読んだことはありませんが)が個人的にはだいぶ怖く、無意識が構造に規定されているような恐怖を書きたいなと思い、〈油井卓也〉ありきで世界が回っている様子を書きたかったんですが、多分失敗したなと思いました。

 

(きけりな)

自作に怖がっていただいてよかったです(笑)自分が「洗礼」に感じた面白み(恐怖)は、分裂を見せながら、現に(そして一人に)統合されてしまうことだと思いました。もっとも、すべてがさくらに統合されていたとわかるのは最終盤ですが、それまではいずみ一人の話に、コマ≒イメージが統合されていることだと思いました。さくら/いずみは言わずもがな、(あるいはいずみ≠松子)、主治医の先生が一人に集約されている。その分裂/統合体系に、クラスメイトだったり、担任の先生が巻き込まれている「かもしれない」というのが、ポイントだと思いました。それを見せる強力なヴィジョンとして、脳移植手術のモチーフがある。自分が書いて見たかったのは、分裂/統合体系自体の恐怖かな、と(指摘されてから)気が付きました。自作は、「私」=先生自身の回想だと擬態して、エミリの回想が行われる形式ですが、エミリの現在に過去(回想)も未来(神託)もオーバーラップしてしまう。そのオーバーラップした時制も、自身の現象でありながら、他者や外界からもたらされたものである。エミリ―カヨコ(―私)間の繋がりが太古から続いている感覚は書き終えてから、自分も感じて、それはおそらく、小説の構造に反して(即して)すべてが現在でしかないことが原因かな、と思います。アウグスティヌス的な? 読み返すと、脳移植前にカルテを読むシーンと実際にエミリとカヨコに直面するシーンは現在の現在ですが、その他はすべて現在とされる現在になっている感じがあります。そのあたり、吉本隆明柳田國男論の影響は意識的で、過去の記憶が当然のように現在のものとして叙述されることによる〈空隙〉が永続的なヴィジョンを召喚する。なので、もしも太古からエミリたちの何かが続いている感覚を持っていただけたなら、多少は成功したかな、と自賛してもいいかもしれません。なので、二項(三項)関係は「洗礼」から借りてきたものの、正直あまり考えてなかったというか……(笑)母が出てこないのも、単に出ると「洗礼」のパクリすぎるな、と消極的な選択に過ぎなかったのですが、仮に母がいると、カヨコ―母―エミリの系譜が連綿とし過ぎて、「私」という第三項による柳田國男化(?)の効果が薄れたかもしれません。憑坐が天皇制的なのは、そのような永続的なヴィジョンが、万世一系に擬態して、「天皇制」としては神霊の継承で機能する点で呼応しているからかもしれません。

 

無意識/外部を「私」/内部で処理しようとするのは、すごく難しいことだと思います。その点で、〈油井卓也〉を外部として必要としない、意地悪な読みもしてしまいましたが、シンプルに、存在しない弟=外部の話として読んだので、失敗したと卑下する必要はないと思います。ただし、やはり天皇制の解消あるいは維持の話が難しいのと同様に(論点としても本当に同様に)〈油井卓也〉の解釈は難しいです。例えば、セカイ系的な論点とも違う。〈油井卓也〉は登場しない、というレベルではなく、存在しないからです。0とnullの差と言うべきか。〈油井卓也〉への作中でのディスカッションに、少し「涼宮ハルヒの憂鬱」(第一巻としての「憂鬱」)的なニュアンスを感じました。だけど、セカイとボクらの直結(セカイ系)から、現象以前にキョンにとって〈涼宮ハルヒ〉が現に目の前に存在する(あるいはハルヒにとって〈キョン〉が目の前に存在する)ことが論点になっていく(メタセカイ系?)のに対し、やはり〈油井卓也〉は非存在なのが大きい。その点で、現に肉を持つ近代天皇制(肉体性と天皇性の齟齬)からも、実は離れるのかもしれない。もしかしたら、初期天皇が、語られのみでありながら実在を前提視され、初期天皇の引き起こす現象が直接神話/歴史と結びつく事態と、〈油井卓也〉は呼応しているのかもしれない、と、またテキストの意図から離れてしまって恐縮ですが、思いました。起源がnullでありながら値があるとシステムが無意識に連鎖していくのは、〈油井卓也〉という規定たる外部/恐怖の源泉と同一視できるかもしれない。読みとしてはやはり、〈油井卓也〉をゼロ記号となすのが面白いし肝なので、それを踏まえて世界の終わりを考えていきたい。が、〈油井卓也〉の操作が世界の終わりをもたらす「構造」を想定して、さらに「構造」から〈油井卓也〉を考えると、ゼロ記号となす絶対性が薄れてしまうジレンマはいまいち解消が(それこそ天皇制のように)難しいです。

 

(ル・パ・ラ)

〈油井卓也〉への作中でのディスカッションに、少し「涼宮ハルヒの憂鬱」(第一巻としての「憂鬱」)的なニュアンスを感じました。
⇒それはたぶんその通りですね、谷川流がずっとロールモデルにあったので。
ソラリス的な空虚な中心に対してディスカッションする話が好きですが、そのままだと話が終わらないので、物語として終わらせるための構造化の手段の一つにセカイ系があるとして、「油井くんのおとうと」は典型かなと思います。
きけりなさんの「はじめの言葉」を自分はあまり理解できていない気はするんですが端緒としては「斎藤かおる」が空虚な中心としてあり、どういう作品なのかなと思ってます。
「起源がnullでありながら値があるとシステムが無意識に連鎖していくのは、〈油井卓也〉という規定たる外部/恐怖の源泉と同一視できるかもしれない。」
⇒なるほど・・・

 

「自分が「洗礼」に感じた面白み(恐怖)は、分裂を見せながら、現に(そして一人に)統合されてしまうことだと思いました。」「自分が書いて見たかったのは、分裂/統合体系自体の恐怖かな、と(指摘されてから)気が付きました。」
⇒自分の中でそれを怖さとして認識するかわからず、咀嚼中です。分裂/統合体系から外れますが、現実には輪廻転生的な同一性から逸脱しているにもかかわらず、同一性を擬態しているさまは、「統合されてしまうこと」からのズレなのかもですが、怖い気がします。それを「系譜」で感じたと思いました。(野崎まど『死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~』という作品を思い出しました)
「そのあたり、吉本隆明柳田國男論の影響は意識的で、過去の記憶が当然のように現在のものとして叙述されることによる〈空隙〉が永続的なヴィジョンを召喚する。」
吉本隆明の文章は読んでいなんですが、吉本を踏まえたであろう、内田隆三柳田国男と事件の記録』に、『山の人生』や『遠野物語』の記述における抽象的な時間や空間の話があった気がします。
最初「テクストの手触り」と言った時に感じた怖さは「すべてが現在でしかないこと」が一番大きいと思います。小説は過去形で記述することで安定するのに対して、現在性しかない小説はそれだけでも一種異様さがある。「憑坐が天皇制的なのは、そのような永続的なヴィジョンが、万世一系に擬態して、「天皇制」としては神霊の継承で機能する点で呼応しているからかもしれません。」というのはなるほどと思います。日記に古代史へのアプローチについて書かれていたと思いますが、本作もその一環と考えてもよいのでしょうか。

 

(イッキューTOKYO)

【合評会「系譜」】
 きけりなさんの書く小説はいくつも読んでいます。今回、描写がしっかりしていて、登場人物のイメージがしやすくなっているなと感じました。設定の面白さや興味深さは元々ずっとですが、ドラマ的な描写のなかに繊細さが見えて、それはもしかしたら楳図さんの作風の影響が出ているのかなと想像しました。
 全編通してやはり、昭和のホラー漫画のような匂いがしますね。そしてそれが最初から最後までぶれてない。登場人物の名前まで昭和感がありますし、演劇の話が出たときなんてガラスの仮面みたいなイメージがわきました。
 きけりなさんの書く登場人物って動揺しないですよね笑。ふつう同じ状況に置かれたら多少は動揺するキャラがいそうですが、当たり前のようにみんな受けとめてしまう。動揺なんてノイズかもしれないし、お話の面白さがあればクールに読み進められますが、楳図さんのホラー漫画にあるあの過剰な絵の感情描写に似た焦燥感が文章での描写にあると、また違った仕上がりになるような気がしました。(良い悪いではなく)

 

【合評会「油井くんのおとうと」】
 油井くんっていう名字がなんとも良いですよね。絶妙にフィクションで、くさすぎない。
 油井くんのおとうとって結局何なんでしょう。それがこの作品のミソだし答えがないわけですよね。ある種の神様みたいなもの。弟がいるような形跡はある。でも目に見えて存在しているわけではない。宗教っていうと語弊があるかもですけど、何か不思議な力をもった存在なわけですよね、油井くんなりそのおとうとは。イマジナリーフレンドという単語がありましたが、おとうとって、油井くん自身が抱えていた神秘性みたいなものなのかなぁと。で、その神秘を消した(手放した)ことで天変地異が起き始めている。
 お魚が降ったあたりは新海映画のどしゃ降りシーンみたいなカタルシスがありますね。多重コーラスのBGMががんがんかかるみたいな。
 こちらの主人公も慌てない。こんなことが起こったらテンパりそうなのに「やれやれ」してる。これはキョンですね笑

 

【合評会「unrest」】
 まず構図がとっても良いですよね。構図で見せてくれる漫画って、私の感覚ですけど達者。表情や台詞に頼らずに構図で登場人物の感情を表現されてるって、漫画として段階上がってますよね。巧みです。
 過去のトラウマを反復させられているような主人公。どこからどこまでが真実なのかすら定かじゃなくて、主人公は実験台のようでもあり、そして主人公自身には苦しむ感情がある。安心しなさいと言われ繰り返される治療。
 なんだか毒親って感じいやですよね笑。そういえば楳図さんの『洗礼』も毒親とサイコな医者だしみんなのホラー観の基盤に楳図がいるのかななんて思いました。

 

(きけりな)

「古代史」に関心を寄せていたものの、どのようにアプローチしたらいいのかわからず、「古代史」は意識の片隅にはありつつも、直接、「系譜」において、方法論としては扱おうとは思ってはいませんでした。自分の日記の古代史に関して、以下のように書いていました。
「古代史の、神話と事実と当時のバイアスと風習ともろもろぐちゃぐちゃになって、虚実が曖昧になって、歴史叙述の本質的な偽史性が露わになる感じで面白い。(中略)つまり、現在と文献とのコンテクストの差が現れるのが面白い。その意味で、「歴史」の中で、習合や同一視が行われていくのも面白い。イメージの連鎖が世代を経て行われ、概念が離散し、集合し、日常の直観と信仰がメタファーとして結実する過程が面白い。」
 こう見ると、確かに「系譜」はけっこう「古代史」の話かもしれません。「歴史」というには「家族史」になってしまいますが、「もろもろぐちゃぐちゃになって」、「習合や同一視」の連なりとしての叙述だと言えそうです。完全に無意識でしたが、「系譜」は「イメージの連鎖が世代を経て行われ、概念が離散し、集合し、日常の直観と信仰がメタファーとして結実する過程」そのものと捉えても過言ではない気がする……。
 その意味では、自分の関心が図らずも達成できた……のでしょうか? 天皇(というシステム)を喚起させたのは(またしても無意識的に)思考していたことが表出してしまったみたいです。

 

【「『幽霊人間の恋』」について】

ポエジーなゴーストラブストーリーとして楽しんだのですが、「ホラー」については、解説で、こういうアプローチか、と理解しました。失恋ものみたいな鋳型に落とし込んで読んでしまったな、と反省です。つまり、初期の新海誠的な、相手の存在「ありき」のストーリーで、その曖昧さにフォーカスがあると誤読してしまってホラーというより不安として初読時は解釈してしまいました。幽霊譚以上に、ホラーとしてもう一度読むと、幽霊化するロジックがわからないのが恐ろしいと思いました。自分の置かれている状況がわからないから、幽霊で在り続けることも怖い。もし、厳密に、呪いか伝染病かみたいな論理が判明していたら、「私」にこういう憎しみのようなものは生まれなかったかもしれません(あとは自分も幽霊化のシステムに乗っかればいいから)。「失恋」と「幽霊化」のやり場のなさが相乗して、ホラー譚になっているのがなるほど、と思いました。ポエジーな文体に恐怖が紛れ込んでいるのが、一番怖いポイントかもしれせん。一種の、「意味がわかると怖い話」みたいといいますか。いや、これも類型に落とし込んだ読みで不誠実ですね。ただし、一番怖いのはこれが「ホラー」であると理解した瞬間になる構図はかなり魅力的だと思いました。

 

【「unrest」について】

素朴な媒体の称揚になりかねないのは承知の上で、マンガにおいて、身体的、特に視覚的恐怖を演出しているのが極めて巧みだと感じました。視覚の部分的な喪失と同時にコマも欠けるのは、特に効果的だと思いました。このマンガの恐怖をあえて言語化してしまえば、「視線」なのではないかと思います。付け加えれば、「見られること」自体より、(読者にとって)「どのように見られているのか/見ているのか(がわからない)」が特徴的だと思いました。コマから見切れた母の「目」、あるいはほぼ唯一はっきり見える医師の「目」。マンガのカメラは主人公の視線を行ったり来たりしますが、完全に同一視したり、あるいは三人称的に描いても、この恐怖は出なかったと思います。この視点の移行による恐怖が最終ページで特に発揮されていると思います。自分(読者)にとって、主人公の恐怖感の源泉はよくわからない。例えばクラスメイトに対する反応は「誰?」であって、主人公にとって、目線の消失は根源的な恐怖ではないように見える。主人公が恐怖している(ように見える)のは、嘔吐直前(これは単に身体的不調の表現かもしれない)、それと拘束されているのに気がつくところ。はっきり恐怖の表出がされている場面は、拘束されている自分を見つめているときだけかもしれない。それまでも心身の不調は描写されているけど「不安」などにちかそうで、主人公にとっては「恐怖」ではなさそうに見える。だから、主人公に移入した読みをしても、拘束までは、不安や不穏を共有して、それが「ホラー」とメタ的に読み進めました。コマ枠の消失は、メタホラー的な眼差しを呼び出すのに極めて効果的でした。そこでオチになって、ようやく主人公の恐怖の表情と、(メタ)「ホラー」として読んでいた視線が一致する。そして、主人公の恐怖の源泉はやはりわからない(いや、目が覚めたら拘束されていたら普通に怖いけれど……)。そのようやく一致した読者と主人公の視線が、最後のコマであらためて提示される。その時点で、没入としての(ベタ)ホラーにマンガ全体が還元される感覚があり、素朴に快感がありました。とはいえ、けっこう読むのが難しいマンガでした。ソリッドゆえに、情報を捉えることが難しかった(だからつまらなかった、という意味ではないです。念の為)。その削ぎ落とされた情報はやはり主人公の状態とオーバーラップした(読みを促す)ものの、主人公のことがわからない! というシンプルな理由です。しかし、やはり、そこがキモだと思うので、誤読しまくりだったらすみませんという話です。

 

(ル・パ・ラ)

【合評会『幽霊人間の恋』】
小説として各部分が充実していて良いなと思いました。特に前半、無理に捻り出された文章と言うより、事実としての幽霊観と、幽霊が存在してしまっているという状況を書く部分が、もうそうと受け止めるしかない書き方で良かったです。ただこれは怖いかどうかという観点ではなく、作品の安定化に向かう力となっていて、実際、「結婚しようか」というくだりまでは、恋人の幽霊に生気を吸われるタイプの幽霊譚かと思いました。
が、その後幽霊が消え、自分までが幽霊になるに至り、「呪いか、はたまた伝染病か。私にそれが移ると、あなたは解放されるのか。呪いが解けたら果たして人間に戻れるのか。それとも存在ごと消えてしまうのか。」という構造化(あくまで語り手の仮説ですが)が出てくるところは面白かったです。正直なところ怖さの勘所を掴めていない気もするんですが、構造化する恐怖の中にキャラクターが身を置くことで、「ポエミー」な装いの裂け目が現れる最後、世界という仕組みの本当の姿が見えるようなどうしようもなさが、怖さとして理解できるな、と思いました。 

 

【合評会「unrest」】
「閃輝性暗点」の表現がまず不安を掻き立てられました。コマの枠まで消去して、視線の先にあるキャラクターの目が見えないだけで、世界の根拠が失われるような怖さがありました。キャラクターの内面は読み取りにくく、自分の身に置き換えた時「閃輝性暗点」に対して感じる恐怖は(根拠がなくとも)失明とか脳の障害ですが、この作品の場合恐怖が内面化するのではなく外部にこそ原因があるように思われる描き方になっている。それはこの漫画が主人公の視線、またそれ以外のカメラを通じて世界を描写しているから得られる怖さで、最近読む楳図かずおも、何でもない風景だけでも怖いと感じます。あとは黒沢清の「Chime」の終盤(家を出た場面)、世界が変質したような映像。
家族や同級生に対して感じる漠然とした不快感も、彼らの視線が見えないから得体の知れなさが倍増され、他者性だけが浮かび上がっているように感じました。一方でコマによっては目を描かれる医者は、家族や同級生とは別のジャンルの怖さとしての怪奇性を帯びる人物となっているように思えます。
全体としては物語が難解で、かっこいい漫画という印象でした。 

 

推薦コンテンツ

【耳】

 アリtoキリギリスの『耳』というコントについて書きたい。これはあくまでコントとして演じられたものであり、それを「ホラー」だと紹介してしまうのはある意味大きなネタバレになってしまうが、紹介しないと知られないだろう埋もれた作品なので割り切って紹介させていただく。
 合法的にこのコントを見る手段は現在おそらくないが、YouTubeには非公式だが上がっている。円盤化も正式な配信も今後されそうにないため、感謝しながらYouTubeで見ると良いと思う。「アリtoキリギリス 耳」で検索するとすぐ出てきます。連続殺人鬼の父とその息子の話です。コント的なオモシロもところどころ入っているけど、これは短めの演劇と言ったほうがいいと思う。
 Wikipediaによると、conteとはフランス語で「短い物語、童話、寸劇」を意味する単語らしい。そう考えると、笑えなくても面白さがあればコントと言えるのだろうし演劇というには10分程度で短いので、アリキリのこれの分類もまあコントだなと思いました。

(イッキューTOKYO)

 

【哲学しよう】

 一世を風靡した山田邦子というタレントがいる。最近になってM-1の審査員に抜擢されたり再評価されているが、その山田邦子が82年に発表したのが『哲学しよう』という楽曲である。
 『哲学しよう』は作曲をYMO細野晴臣、作詞を自身でこなしている。どこか怖い音色のテクノポップサウンドに、山田のラップのような語りと歌声が乗る。日本語ヒップホップの先駆けともいえるアプローチで、おそらくこれは意欲作だ。
 歌詞の登場人物は二人。山田は大人のお姉さんで、うぶな坊やを夜、二人きりで哲学しようと誘う。歌詞の正確な狙いは分からない。「ぶーるぶる」という言葉が何度も繰り返される。坊やはずっと怯えているようだ。震える彼に指を絡ませながら「生きるってなあニ 愛するってなあニ」と山田は問いかける。音色の印象も相まって、お姉さんがまともな存在に思えなくなる。坊やが誘いに乗ったとして、果たしてちゃんと戻ってこられるのか。いやはや考えすぎかもしれない。バスガイドのネタからスターダムへとのし上がった山田だが、今夜はこの坊やを哲学に誘って、いったいどこへと案内するのだろう。
 『哲学しよう』、昭和の隠れたサブカル名曲です。

(イッキューTOKYO)

 

【ゆうやけトリップ】

活動報告でも言及しましたが本当によいマンガです。美麗な絵を十全に味わうには間違いなく電子版がオススメですが、キャラクターと背景の境界が曖昧になるほどに絵が潰れてしまった紙版の方がむしろ(僕が勝手に見出した)作品のコンセプトに合っているような気がします。

https://amzn.asia/d/fsE1Q2x

(fesaki)

 

【言葉と歩く日記】

多和田葉子のエッセイや日記のような新書です。これ自体がホラーとして読めるわけではなく、興味深い一節があるので紹介します(手元にないのでツイッターからの孫引きですが……)。
「日本社会をそのまま描けばホラーになるので、ホラーは一番リアリズムに近いジャンルである」
多和田葉子の書く小説の「リアリズム」にホラーを感じることは容易だと思います。それは多和田葉子にとって、「そのまま」書いているからではないか。俗流フロイト理解で恐縮ですが、「不気味なもの」(馴染のある世界から回帰してきたもの)を多和田葉子は書いているようにみえます。だからこそ、日本社会をそのまま書けばホラーになるというのは、政治的言明だとか、アイロニー以上に、多和田葉子の(あるいは我々の)思考様式として本質的ではないかと思います。ゆえに(遠回りになってしまったが)ホラー論としても的確だと思います。「そのまま」が再帰的に思考されるてくることが恐怖なのは、多和田葉子に限らず、やはり我々の恐怖ではないでしょうか。

(きけりな)

 

【オカルト】

(2008年、白石晃士監督)
神の啓示を受けたという男性に密着取材をするという体のフェイクドキュメンタリー。
主人公の男性はネカフェ難民派遣社員で、取材への協力を口実にどんどん図々しくなる。彼の言う「事件後に”奇跡”に遭遇するようになった」という話の信憑性も怪しいが、そういった人間のせせこましい嫌な描写が面白い。
結末はクトゥルフ的な世界に接続される。要はセカイ系なのだと思うが、リアリズムを以て描くパートからの飛躍が大きい。フィクションのナラティブの中でこの話をやっても普通だと思うけどそれをフェイクドキュメンタリーという枠組みの中で扱うところが刺激的だった。いや厳密には明らかな低予算CGを「これは事実なんだ」と言い張ってリアリズムを揺さぶるところが良い。
2008年頃の都市描写とかでノスタルジアもある。
「インターホン」(「封印映像21 霧の村の呪祭」収録)
霊障」という同人誌をきっかけに心霊ドキュメンタリーを少しずつ見るようになった。このジャンルはだんだん慣れてきて怖くなくなるが、その初期に見たやつだからかかなり怖かった。
オムニバス形式で、その1本目。ヒトコワというジャンルに該当するのだと思う作品で、恐怖の表象としては安易な他者化と言い切ってしまってもいいのかもしれないが、実際に自分の身に起こると考えた時には怖いシチュエーション(厳密にはサスペンスに該当するかもしれない)。ただ映して終わりではなく現在進行形で事態が進むのが怖い。
フェイクドキュメンタリー、心霊ビデオ。この手のものは、まさに映像を撮っているその瞬間に、決定的な事態が起こってほしい。

(ル・パ・ラ)

 

【9デイズワンダー】

「福井瞬×オオノヨウ」
別冊少年チャンピオンで連載されていたマンガです。全四巻。
現実化したフォークロア(都市伝説)と戦うホラーマンガですが、どちらかといえば中二ちっくなバトルマンガですね。
ホラーとして提示されるフォークロアは言ってしまえばただの「モンスター」なので、そこまで恐怖を煽るものではないのですが、一昔前の中二伝奇ものの雰囲気があって、懐かしい感じです。東京魔人学園系といいますか。
本題ですが、このマンガ、一部の層から人気があります。というのも、メインキャラの一人、「桜湯之介」がいわゆる「デブショタ」なんですね。しかも見た目とキャラがちゃんとかわいい。このマンガの良さは中二ホラーよりも、デブショタのかわいさと言っても過言ではない。
純粋に恐怖を追求するならどうでもいいことですが、コンテンツとして「ホラー」を見ると、セクシャルさはけっこう密接だと思います。アイドル主演のB級ホラーは乱造され続けているし、惨殺されるのは美女だし、なんなら恐怖の対象が美しいのも類型でしょう。雪女だとか(「富江」までいくとまた別のジャンルな気もしますが……)。
女性向けに観点を変えても、恋愛相手がサイコパスとかヴァンパイアとかすごくあります。以前あったホラー誌の「ホラーM」もカテゴリとしては女性向けだったり。
その点でこのマンガを見れば、デブショタがアイドルのB級ホラーとして特異な立ち位置があります(一応女性の「ヒロイン」はいますが)。そもそも(かわいい)デブショタがメインキャラで登場する作品が少ないので、恐らく意図はしていなかったと思いますが、すごくニッチな層を狙いうちしています。
エロスとホラーが結びつきがちなのは、ホラーというのが身体性に依拠するからかもしれません。だから、伊藤潤二のように「美麗」であるか、日野日出志のように「グロテスク」であることが、身体表現として強調されなければならないのかもしれない。
とすれば、「デブショタ」という美麗でもなくグロテスクでもないキャラ類型とホラーを結びつけるのは、難しいことをやっていたのかもしれません(いや、読者が勝手にデブショタ萌えマンガに仕立てあげているだけで、本当にデブショタヒロインというわけではないのですが)。太っているということはかなり生命の過剰さをイメージさせて、死への漸近という意味での恐怖と結びつきにくいのかもしれない。ゾンビものでも屈強な男性は真っ先に殺されて「かませ」にされるイメージがあります。
実際、「9デイズワンダー」も、ホラーよりバトルが主眼よね、というのを前提視しても、デブショタかわいいで終始し、ホラーがうまく結びついているとは言い難いところがあります。
まあ、それでも希少価値と言いますか、素朴に萌えるのでいいですね。

 

次回予告

 十月のぬえすけーぷは「異世界」をテーマに活動していきます。広く、「ナーロッパ」的なものに限らずです。

 具体的なスケジュールとして

10/13 10月活動報告、締め切り
10/31 10月活動総括、10月実作提出、10月推薦コンテンツ、12月のテーマ、締め切り
11/1 10月実作の合評会開始
11/17 11月活動報告、締め切り
11/30 10月合評会、11月活動総括、11月実作提出、11月推薦コンテンツ、1月テーマ、締め切り

 こんな感じです。一カ月に一回公開できるといいですね。

 というわけで、次回は十二月頭になりそうです。お楽しみに!

 

招待

 なんちゃらリテラチャー部は随時会員募集中です。継続的な活動を行えるか不安な方も、まずは見学、という形でも歓迎なので、ふらっとご参加ください。実際、創設した自分もテキトーにやってます(おいおい)。以下、何リテラチャー部創設時の理念等。

 

https://nantyaraliterature.hatenablog.com/entry/2024/07/15/152824

 

 ポリシーに少しでも興味をもってくださったら、フランクにどうぞ!

 

https://discord.com/invite/7KYgFhqvjC

 

 基本的にDiscord上で活動しています。スケジュールも暫定なので、特に気にせず気になったらいつでもご参加ください。お待ちしています!

 

編集後記

 実際に実作を通した活動を行いましたが、みなさんのご協力のおかげで、ちゃんと、活動が成立してありがたかったです。まだ(事実上)第一回ということで、相変わらずスケジュールなどがふにゃふにゃで申し訳ないですが、その点に関してもご意見をいただいたりして、本当にありがたい限りです。

 活動内容は暫定、このサイクルで回していきたいと思います。このままゆるーくモチベーションを維持しつつ、続けていけたらいいですね。

 繰り返しになってしまいますが、タスクやスケジュール的に参加が難しそう、と思われている方も、ポリシーにご興味をもっていただければ、できる範囲の活動でオッケーです(例えば、今月は「推薦コンテンツ」だけ書いてみよう、とか)。活動のノリはだいたい今回掲載した通りです。

 次回以降も(いろいろ)よろしくお願いします!

ぬえすけーぷ 0号 「好きな映画」

 

はじめに

 なんちゃらリテラチャー部は実作を中心として活動するオンラインコミュニティです。

 主にDiscord上で活動していますが、この度、その活動の発信として「ぬえすけーぷ」を始めました。「雑誌」あるいはメルマガのようなものですね。

 7月は実作とそれへの合評会は時間的に割愛せざるを得ませんでしたが、次回以降は掲載していくつもりです。お楽しみに!

 

活動総括

きけりな

 「好きな映画」をテーマにしつつ、映画を見ることにも「好きな映画」を語ることにも、苦手意識はつきまとう。イッキューTOKYOさんと同じように、映画を見るぞ/語るぞ、と身構えてしまうからでしょう。

 「好きな映画」について考えたとき、最初に連想したのは、「違和」と「そこに存在していること」でした。

 「そこに存在していること」は黒沢清斎藤環との対談で黒沢清が述べていた「そこに存在してしまうことがイコール恐怖になるということがら一つのぼくの理想形です。」という言葉と近いニュアンスかもしれない。あるいは、「そこに存在していること」は、ル・パ・ラさんがおっしゃった、「台詞や映像の意味が一義的に決まるような映画」ではなく、「ドキュメンタリー性を取り入れた映画」の「日常のやり取りや、役者の匿名性」に「居心地がいいです。」という感覚と近いのかもしれません。とりわけ自分はホラーオタクというわけではなく存在=恐怖という構図には執着がありませんが、映画として存在していること、一義的な意味を阻んで存在していることに刺激を受けるのかもしれません。

 逆に、一義的な快楽として、「意志の勝利」を思い出しました。政治的な評価はさておき、という文句が不可能なのは承知な上で、整然と映画の運動が収斂していくのが気持ちよかった。

 同一視するのは危険ですが、「泣ける映画」や「笑える映画」のようなカテゴリで、一つの意志へ向けて映画/観客を動員する力学はある。

 それは、映画は一人で見るものかつ、リアルタイムで体験を共有するメディアだからかもしれない。小説なんかは個人的体験すぎるし、演劇は一人で見るもの、というより、観客の一員として見るものという感覚がある。

 そのような一義的うねりへの対抗として、「違和」と「そこに存在すること」という考えが浮かんだのかもしれません。

 「違和」について、毒塩先生さんは、「『作品の構造とは外れた部分にある情報が増殖し続けること』に近い」とおっしゃっていました。おそらく、自分が面白がる「違和」と同じ認識だと思います(というのも、自分も「違和」をいまいち言語化できない)。また、fesakiさんがロベール・ブレッソンの映画のイメージの「気持ち悪さ」についておっしゃっていて、それも自分の漠然と考える「違和」のようにかんじます。

 このように考えると、「違和」と「そこに存在すること」は、同じことを別の言い方で表現しているだけのように思えました。

 映画は一義的にうねりを規定する運動がある。だから、そこから外れたような情報に関心が向くし、そここそがキモだと思えます。

 一義的なうねりをさらに、「イメージ」と言い換えてもいいかもしれません。一つの「イメージ」の連続としてしか、自分は映画を認識できないから、その認識を揺さぶってくれるものを求めているのかもしれません。バルト流に、「第三の意味」と捉えていいのかもしれない。

 「イメージ」は把握できるのに理解できない映画として、「三つ数えろ」を思い出しました。何か、「ハードボイルドミステリ」の「イメージ」には誘導される。なのに、何もわからない。「イメージ」でしか映画を理解できない自分にとっては、ある意味理想的な映画の在り方なのかもしれません。

 「イメージ」と戯れながら、「意味」が放逸していく。そこが、「好きだ」と思う瞬間かもしれません。

 

イッキューTOKYO

 映画というものを観たり考えるとき、大抵の人は自意識と向き合ってしまう。その映画を見ようとしたというその選択から自意識は始まっているし、それを見てどう感じるかというのをある種自分を試しながら見ていくところがあると思う。良い悪いや好き嫌い、そしてその理由は。たぶんその向き合う行為が、映画を最初から最後まで通して観ないと正確じゃなくなる気がして、そんな勝手なこだわりでタイパ時代に逆らうように上映時間の拘束に苦しみ、鑑賞の敷居を自分で高めてしまう。エゴだよ、それは。私!

 映画館に行くなら、ある程度空いてる映画館で、端っこのほうや前列のゆとりのある席で観るのが好きです。人気作や試写会や、あと新宿だとか立地的に集客の多い映画館で隣の席を他人に埋められながら見るのがどうも苦手だ。観たいものなら人気が落ち着いた頃、空いた映画館へ行こうと思うし、そのうち配信もされるから家でビールでも飲みながらいつでも排泄できる環境で観たほうが結局楽しい(トイレが近い)。

 毒塩先生が僕の活動報告を読んで、乗っかった楽しい返信をくれた。僕は素直に面白く自分の意見を言ってくれる人を好むし、信頼する。そこにエチケットがあるなら尚良しで。ナラティブなんて、正直、別にあえて見るものではない笑 もっと面白いガンダムはあるし、ガンダムファンにもさほどウケていない。せっかくなら映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から見ていただいて、面白いと思ったなら映画『機動戦士ガンダム F91』も見てほしい。富野作品に興味がわいたらアニメ『伝説巨神イデオン』とその劇場版『伝説巨神イデオン 発動篇』を見て、そのくらいでもう、十分。Vガンも悪くないけど面白さの半分はカテジナという自己愛の強い理想主義的女キャラによるものだし、Ζは後半手抜きになってクオリティが低下する。あっ、平野綾の『God knows…』はセカイ系です先生自信をもってください……!(死。

 映画好きでなくても、一つのコンテンツの摂取でしかなくても、それでも映画を見て血肉になることはやはりあって、それに一抹の期待を感じながら希望を捨てずに我々は映画に向かうのでしょう。時間や客席という拘束にも耐えながら……。僕は映画を見るとき、かつては時計とにらめっこしながら「早く終われ」と思いながら見ていました。その感覚を見て見ぬふりしながら鑑賞できるようになっただけ、成長かもしれないし老いかもしれない。

 ル・パ・ラさんの報告のなかに、棒読みというワードがありました。正確には棒読みではないのでしょうが、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』は邦画で一番好きな作品です。棒読みにも聞こえる大量の台詞と、過剰な著名俳優たち。そういった数の暴力ともいえる作風が、庵野実写における間の悪さやB級っぽさという欠点のカバーにもなり、邦画の持ち得るエンタメ性の最高位とすら思い感動しました。

 この映画を好きです、ということは自己紹介でもありファッションでもある。人は自意識をそこに向け、撮ってもないくせに偉そうに批評してしまう。馬鹿なレビューを読むとうんざりするし、自分のレビューも誰かにとっては辟易するものだろう。それでも何かを語って他人にあなたの自意識を見せてほしいし、その題材として映画というのはとても適度で、あぁ映画文化はまだしばらく安泰だろうなと思わされました。

 

毒塩先生

 ロブ=グリエの『嫉妬』について、カメラ・アイ的な視点から空間が描かれて、その中で同じイメージが反復されていることの意味について話し合った。この作品から感じるストレスのなさの根幹はなんだろうと考えてみると、作中のフランクとKの読んだ本に関する会話がすべてなんじゃないだろうか。登場人物の行動や言動について、まるで知り合いを評価するように話し合い、作品内に登場する場所について自分の体験談と結びつけて語る。「ここをこう読め」「ここはこう感じろ」という要請がなく、世界がただそこに“ある”。そこに安心を感じる。

 きりけなさんの応答を読んでいると、ゴダールのアイドル性は、なにを話すにしても「ゴダール」の存在を念頭に置いてしまうことに起因しているように思えてくる。ここしばらく読んでいる中上健次も同じような印象で、古川日出男の「中上健次に著された作品として読まないでいることは不可能に近い」という解説がそれを印象づける。ゴダールも中上も、作り手の存在を意識せずにいられない。

 ゴダールの映画は、各作品を通して、同じテーマやイメージの反復が行われている。中上も同様だ。イメージの反復は、世界の連続を印象づける。『嫉妬』を観ることは、イメージの触発を通して、『気狂いピエロ』や『勝手にしやがれ』を観ることになる。それらの集まりが、「ゴダール」というイメージの集合体を形成する。ゴダールについてわずかにでも考えることは、イメージの触発によって、「ゴダール」と接続することになる。その存在を、“ある”と強く感じさせてしまう。これがゴダールのアイドル性の根幹だ。

 “ある”という感覚の有無は、「文脈上での置きどころがわからない情報量」に左右されるのかもしれない。マグリットの《イメージの裏切り》で描かれた「パイプではないもの」と、たったいま7秒で書いたパイプの落書きを見比べてみる。落書きは、「パイプではないもの」に比べると、引き出せる情報量にムダがない。落書きは、「パイプであること」の意志のほかには、パイプとして引き出せる情報がない。あとは、筆使いとか、アングルとか、制作者である私個人に関わるものしかない。一方、「パイプではないもの」は、実際のパイプのさまざまな側面を模倣しているがゆえに、円柱の隅に触れる感触や、床に落としたときに鳴る音のような、ただそこにあるがゆえに生まれてしまう「必然性のない情報量」のイメージの総体にわれわれを接続する。それゆえに、「パイプではないもの」を“ある”と感じる。

 “ある”ことは支配的ではない。独立してただそこに“ある”だけなのだから、受け手にたいする強制力を持たない。受け手は、そこに“ある”ものからインスピレーションを得て、それを各自で発展させていく。

 この“ある”ことのイメージが大きくなっていくと、「温かいミルクの海」の中にあるような感覚になる。おもしろい映画を見終えた後に得られる高揚感はこれだ。情報が渾然として渦巻いている状態だが、エネルギーに満ちあふれているのを感じる。ひょっとすると、「宗教的な感覚」というのは、こういうものかもしれない。ヒンドゥー教の乳海攪拌は、形を変えて各国の伝承に取り入れられている。解釈がなされて、物事を見る型ができてくると、この高揚感は落ち着いてくる。溶質が固まって沈殿していくイメージがこれに近い。ルパラさんは、【活動報告】の「区別のつかないアイドル」について、これを感じたという。この高揚感には、ある物事への知識不足が関わっている。先ほどの「各自のインスピレーションの発展」と結びつけて考えれば、そこにあるのは、「自分を主体とした解釈の可能性」だろう。わたしは『KAGEROU』を読む気はない。『KAGEROU』の内容そのものより、それをとりまく、伝聞で形成されたイメージのおもしろさをたのしんでいたい。

 私は、「解釈は創作に含まれる」と同時に「創作は解釈に含まれる」とも考えている。「解釈」も「創作」も要素ではなく部分集合で、「解釈」と「創作」には積集合となる部分が存在している。映画の感想は映画の二次創作で、映画の二次創作は映画の感想だ。「文学の与えるもっとも大きな楽しみは創作である」というハーバート・クエインの考えに、私は共感する。そしてハーバート・クエインの述べる「創作」とは、この「解釈」と「創作」の積集合ではないかと考える。

 私の好きな映画は、先述の「温かいミルクの海」の高揚感を与えてくれるようなものだ。それは“ある”ものであり、宗教的な感覚を与えるものであり、自分を主体とした創作と解釈をうながすものである。そしてそれらの要素は別々にあるわけではなく、密接に関わりあっている。

 

ル・パ・ラ

「好きな映画」というお題に対し自分があげたのは、「自然な会話」(素人性や匿名性)であり、物語を一義的な読み方に誘導しないタイプの映画であると要約(集約)できると思います。

イッキューTOKYOさんが仰った「映画はそもそも作り物なのだから、自然風な会話演出は映画的に演出できない逃げ道である」というコメントはかなり痛く、自分も小説やマンガに対してなら同様の意見を持てるのですが、自分の場合、映画というメディアに対して求める機能がかなり限定的なのだと反省しました。

きけりなさんの「凡庸で退屈な会話を特権的に「自然と会話」と見なしたいのではないか」というのも、同じく痛い。自分は慢性的に「自然な会話」に欠乏しています。まず人と会話をする機会が極端に少なく、そのくせ周囲の会話に対して注意を向けず、ラジオを聴く趣味もありません(本当は「自然な会話」になど興味がないのかも)。だから映画に限らず自然な会話を特権化しているのかもしれない、と思いました。また「自然な会話」の一例として「けいおん!」のキャラクター間の親密な会話をあげていただきましたが、「自然な会話」には一種、キャラクターを覗き見したいという欲望があるかもしれません。

毒塩先生の応答はそれ自体が「自然な会話」であるようにも思えました。フィクションの面白さの一つに「ポリフォニー」性があるのだとして(そこに異論はない)、一人の人間が複数のキャラクターを動かしているという奇妙さが根本にあるように自分には思えます。毒塩先生がその特異な形式で書かれるレビューで複数のキャラクターを動かす時、会話は一つの方向に収束せず、毒塩先生はこの文章のどこにいるのかと不思議な感覚に陥ります。

あとは他の報告・応答を見て自分は映画の「イメージ」に対する執着がないというのは気がつきました。

きけりなさんの言う「違和」も、言われてみれば同意するものの、自分の場合は映画への積極的な関与がないと、要はこちら側のコンディションでいとも簡単にどうでもいいものに転じてしまう(その点「自然な会話」は快楽原則的に楽しめてしまう)。というわけで、映画館やらなんやらで、拘束されて観る環境が重要だなと思いました。

 

fesaki

またしても遅れまして申し訳ございません。他の方への応答もできていなかったので、それも兼ねた総括とさせて頂きます。

皆さんの報告を改めて読み返して、大嫌いだった高校の先輩が「黒澤明以外で見る価値のある邦画って存在するのか?」と言っていたことを思い出しました。彼はその根拠の一つとして「邦画の演技がクサすぎる」ことを挙げていたのですが、不見識な発言に憤っていた私も内心これには頷けるところがありました。実際の巧拙や彼此のディレクションの違いといった問題は(よくわからないから)さておくとして、確かに邦画のなかで交わされる会話は私たちが普段おこなっている「自然な会話」とは余りにも違いすぎる。「クサすぎて、見る価値がない」という態度も、この感覚をどう表現するか、どう受け止めるかの一例に数え入れることができるでしょう。

きけりなさんと同様、私も黒沢清の映画には何か違和感を覚えます。それはもしかしたら、この「つくりもの臭さ」に由来するのかもしれません。もっといえば、哀川翔がつくりもの臭い。『復讐』シリーズでも『蜘蛛の瞳』でも『蛇の道』でもなんでもいいので、未見の方はぜひ一度あの抑揚を欠いた平坦な声と、ほとんど動かない表情を見ていただきたい。たとえば『蛇の道』の冒頭、主人公の娘を殺した容疑者を拷問するシーンにおいて、哀川演じる元刑事は初めこそ静かに相手を問い詰めていくのですが、要領を得ない解答についに激昂して激しい暴力をふるう。しかし、ここでの哀川翔は端的に「そういう演技をしている人」にしか見えません。「娘を殺された悲しみ、怒り」といった、キャラクターの背景が見えてこないのです。これを「下手くそ」の一言で片付けることは容易ですが、黒沢清の映画を見ることは、こうした違和感と向き合っていくことなのかもしれない。『蛇の道』で哀川翔の隣に置かれるのが香川照之という対照的な、むしろ「演技過剰」とも言える俳優であることからも、なにか作為的なものを感じます。殺された娘が幽霊として現れる(正確には現れなかった、気がしますが)のも面白い。

ル・パ・ラさんやイッキューTOKYOさんがフェイバリットとして挙げている岩井俊二北野武庵野秀明は、それぞれ微妙な違いはあれど俳優の演技に違和感がある映画を撮る監督ですね。岩井俊二の場合、最近の作品はそうでもない気がしますが『Love Letter』での豊川悦司なんかは完全に哀川翔と同じたぐいの違和感を発していた記憶があります。北野映画ではなんといっても武の顔が最大の違和感として君臨している。柳ユーレイの「首」が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるファーストショットから始まる『3-4x10月』から最新作『首』に至るまでずっと、あるいは交通事故による顔面麻痺すらも含めて、北野映画では顔あるいは頭部が重要な主題として扱われ続けています。庵野秀明の映画では、『シン・ゴジラ』の石原さとみや『シン・ウルトラマン』の山本耕史、『シン・仮面ライダー』の浜辺美波など、哀川翔豊川悦司のそれとは全く違うレベルで嘘くさい演技がおこなわれている。にもかかわらず、庵野本人はむしろ「リアル」を追い求めているらしいから不思議です。毒塩先生が挙げているゴダールの映画は、単純にフランス語が出来ないからなのか、俳優の演技に関してはよくわからない。もちろん違和感しかないのですが、時期によっても作風が違いすぎて一括りにまとめることが難しい。そういえば、普段ほとんど映画を見ない妹と一緒に『カルメンという名の女』を見に行ったら結構面白がっていました。単純に『カルメン』が活劇していてカッコよかったからなのかもしれませんが、映画に対する先入観やリテラシーが低いほどゴダールを素朴に面白がれるのかもしれない。

映画につくりもの臭さを感じるとき、私たちは「そこにある俳優の身体」を感知しているのかもしれません。いわゆる「自然な演技」は観客に何の違和感も抱かせることがないし、映画は没入するための「別世界」になる。それが良いことであるとも悪いことであるとも思いませんが、ごく単純な意味において映画は「現実」と地続きにしかつくられないし、見られることもない。この点をもっと突き詰めて考えている人物として、きけりなさんがよく参照している保坂和志やいぬのせなか座(山本浩貴)の名前が挙げられるでしょう。(いぬのせなか座に関しては難しくてよくわからないのですが……)

 

自分が描くマンガのクオリティの低さに絶望して、「世の中にはいくらでも面白いマンガがあるのにどうして苦労してこんなものを描いているんだろう」という気持ちになることがあります。どうやらこれは創作あるあるらしいです。けれど、マンガも「現実」と地続きにつくられていることを忘れてはならない。どんなマンガも勝手に自然発生するのではなく作者と「現実」の調停の結果としてつくりだされるものです。仕事であれ趣味であれ「マンガを描く」ことは働くとか勉強するとか恋愛するとか、私と「現実」が関係する行為の一つであって世の中に「面白いマンガがある」こととは全く関係がない。川勝徳重『電話・睡眠・音楽』のあとがきを読んでそんなことを考えました。

 

――私はそもそもマンガを描く才能があまりない。絵は下手で人物を描くと福笑いになるし物語も作れない。「コマ割りって何だ」「物語って何だ」というところから考えないと何も描けない。これはカッコつけてるわけでもなくて、本当に描けなかったし、今でもスラスラとマンガを描く人の存在が不思議でしょうがないのです。(…)私はいまだに、自分が何を表現しようとしているのかわかりません。(...)これをハッキリさせるためには……そしてマンガで描くためには、新しいスタイルが必要なのではないかと近頃よく思います。つまり私は私のリアリズムを獲得したいのです。(『電話・睡眠・音楽』)

 

推薦コンテンツ

【吉祥寺オデヲン】

色んな映画館で、極音上映や、IMAX上映などを行っているが、正直、自分には違いがよくわからない。初めてBlu-rayを見たときも、DVDより画質いい、のか? とあんまわからなかったくらいなので、恥ずかしながら、自分の感覚はかなり鈍い。

爆音上映とかも、最初はテンション上がるけど、すぐに爆音に慣れてしまうので、そこまで興味ない。

なので、とりわけ好きな映画館(の上映方法)はないのだけど、吉祥寺オデヲンはけっこう好きです。

端的に言って、座席がいい。前列と後列が半席分ずれていて、前列の人の頭が邪魔にならない。

加えて、座席側の傾斜が少ないから、スクリーンとほぼ平行な位置で見ることになって、首を変に傾ける座席が少なくなっていて、快適。

ただ難点として、アクセスがいいせいで、いつも人が多い。名古屋にいたころはシアターに五人くらいいたら「多いなー」と思っていたのに、吉祥寺オデヲンだと平日の午前中でも隣り合ったりしないまでもけっこう人がいる。ただ、人が多いのは吉祥寺オデヲンに限らないので、「東京怖い」という話です。

しかし、そういう人の多さ込みでも、座席はゆとりがあるしぎゅうぎゅうな感じしない。足元にも広さがわりとあって、軽く伸ばす程度問題ない。

音響などに特殊な効果は(たぶん)ないが、映画体験という意味では、快適にゆったり見られるのが何より至高です。

欲を言えば、もっと人減らないかなーって思ってます(おいおい)。

(きけりな)

 

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

 もう単に、アニメ史に残る名作映画です、と終わりにしたいが、それでは魅力を伝えられないので。しかし、逆襲のシャアの魅力を伝えるのは難しい(語ることの難しさは逆襲のシャアに限らないが)。

 富野由悠季監督作品、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」は、1988年公開。「機動戦士ガンダム」、「機動戦士Zガンダム」、「機動戦士ガンダムZZ」の続編にあたるロボットアニメ。しかし、逆襲のシャアだけ見てもほとんど問題ない。

 ガンダムシリーズの舞台は、人類が宇宙にコロニーを作り移民するようになってからしばらく経った未来。シリーズでは主に、宇宙移民者と地球との緊張関係が背景となっている。初代の「機動戦士ガンダム」では、統括的に社会を支配していた「地球連邦」とそこからの独立戦争を試みた「ジオン公国」の戦いがメインストーリーだった。その中で、巻き込まれる形でモビルスーツ(巨大ロボット)のパイロットになったアムロ・レイと、宇宙移民の独立運動を唱え暗殺された人物の息子という立ち場を隠しながら、ジオンの一軍人として立ちはだかったシャア・アズナブルとの、単なる対立だけではない、共感や互いへの嫉妬や一人の女性を巡る悲劇などの因縁が繰り広げられた。

 今作の時系列的には、初代では少年/青年だったアムロとシャアが中年に差し掛かったころ。ジオンの残党である「ネオ・ジオン」のリーダーとなったシャアと、地球連邦軍の一軍人、アムロの対立がメインとなる。そこに、映画からの新キャラクターのエピソードが絡みながら進行していく。

 今作でのストーリーの枠組みは、小惑星を地球に衝突させる「テロ」をしようとするシャアたち。それを止めようとするアムロたち。その中で、エゴや感情や社会的立ち場に振り回されるサブキャラクターたち。というものでそこまで複雑ではない。だから、ストーリー的な楽しみより、キャラクター間のドラマが面白い作品だろう。もちろん、かっこいいモビルスーツが美麗な作画でエキサイティングな殺陣をすることをシンプルに楽しんでも構わないわけだが、それだけが魅力ではない。

 子どものころから何度も見返している作品だが、成長するに従って、逆襲のシャアの見方も変わっている気がする。それが逆襲のシャアの豊潤さの証明です、というのはトートロジーに過ぎないから無意味な評価だ。一方で、自分の着眼点として、ずっと、主人公である、アムロ・レイに興味がないのは一貫していた。

 半ばフェチだが、自分は悪役が好きだ。だから、ここでは、逆襲のシャアの「敵」の魅力に焦点を絞りたい。

 敵、それは、タイトルにも冠されているように、アムロのライバルであるシャア・アズナブルである。そして、これはシャアの映画だ。映画を駆動させているのはシャアの思想や行動で、アムロはそれに対処することしかしないし、できない。

 シャアの魅力は、本音と建前、理想と現実、自分のやれることとやらなければならないこと、社会的責務と個人的エゴのギャップを意識しながらも、ギャップの境界が自分でもよくわからなくなっていることだと思う。雑に括ってしまえば、「中年の危機」、大人思春期としてありふれているのかもしれない。シャアはそれを隠そうとするし、どこまで自認しているのかおそらくシャア自身でもわからないし、他のキャラや視聴者も、シャアのことがわからない。

 以前、ネットの感想を見ていると、「三十分おきにシャアのことが好きになったり嫌いになったりする映画」とコメントしている人がいた。その感性は正しいと思った。

アムロ職業軍人として、仕事とプライベートを「大人」に切り分けて暮らしている。十全に社会化されていて、シャアに対しても、忠実に、保守的な軍人としての正義をなそうとして揺るがない。

 一方で、シャアは揺らぎ続ける。シャアは一種のテロリストとして、地球に小惑星を落とそうとする。

 その目的は、地球連邦の高官のような政治的に腐敗した愚民を粛清するとか、宇宙に移民させられて難民を作り出した歴史を終わらせたいとか、地球に人が住めなくして汚染をやめさせ地球の環境を守るとか、人類すべてを宇宙に移民させてニュータイプ(一種の超能力者)として覚醒させたいとか、色々な題目をアピールするが、その一方で、「私は打倒アムロ以外に興味はない」、「私は世直しなど考えていない」と述べる。

 だけど、シャアにとって、ここに矛盾はない。「ネオ・ジオンの総帥」として、卓越した技能をもつパイロットとして、ニュータイプの一人として、あるいはニュータイプになりきれないオールドタイプとして、上司として、父代わりとして、恋人として、アムロのライバルとして、そのときどきに思想や言い方を、使い分ける。加えて、感情的な売り言葉に買い言葉で言い放つこともある。そして、その立ち場が混然としていて、シャア自身もどのポジションでいるのか、いるべきなのかわからない。なのに、けっきょく全体としてその立ち場で求められる「シャア」を的確に演じてしまう。

 物語の最後は、アムロとシャアのみみっちい口論で終わる。社会正義とか世直しとかでもなく、クェスという、アムロのもとからシャアのもとへ行ってパイロットになってしまったニュータイプの少女について、罵りあう。劇中、シャアは露骨にクェスの感情をコントロールし、パイロットとして利用していたのに、口論の中、アムロの言葉で初めて気がつかされたように、

「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じてクェスをマシーンにしたのだな」

 と述べる。

 映画の最初から最後まで、アムロとシャア、あるいは他のキャラたちのみみっちさを延々と続けながら、ラストシーンで、超常現象的な「奇跡」が起きて、映画はもう終わってしまう。

 この映画でのみみっちさと「奇跡」の崇高さは、二項対立ではなく、シャアの在り方のように、混然としたものだ。

 組織人として社会的な正義に忠実なアムロは崇高で凡庸でみみっちい。

 人類全体を善くしようとしながらもエゴやしがらみに囚われるシャアは崇高で情けなくみみっちい。

 そのみみっちさこそが崇高さなのだ、あるいは崇高さにもみみっちさを孕んでいる、というわけでもなく、単にものの見方として、人々はみみっちかったり崇高だったりする。「悪役」としてのシャアは、理想主義的に世界を革命しようとする崇高な指導者であると同時にアムロや職場の人間関係に囚われるしょうもない中年でもある。繰り返すが、この崇高さとしょうもなさ(みみっちさ)は逆説で結ばれたり、二項対立としてあるものではなく、シャアに限らず、人という生き物がそして人の作り上げてきた社会、世界が何もかもぐちゃぐちゃでそういう在り方なんだ、という一種の真理を描いている。

庵野秀明が編集した、「逆襲のシャア友の会」に寄稿していたふくやまけいこは、ロボットに興味ないし、登場人物がみんな中学生みたいで、あまり乗れなかった、と書いていた。一方で、キャラたちのしょうもなさを、面白がれずとも、よく分析できていた。
 ふくやまけいこは崇高な、「大人」なものをよく書くから、乗れないことはわかる気がするし、これも正しい映画の見方をしていると思う。
 だけど、「年を重ねてもずっと私(たち)はみみっちい」と感じる人たちにとって、逆襲のシャアは極めて本質を説いていると思う。少なくとも、自分が初めて見た小学生のころから現在に至るまで。
 そして、いい年して、崇高なアニメを見ているしょうもなさ(イマドキはそう思わない人も増えているかもしれないが)という意識と時代を越えて呼応するものだと思う。その自意識の拡大、あるいはメタファーとして巨大ロボットがある。
 だから、思春期的な感性から抜け出せないと感じている人、何か自意識にアンビバレントな部分を意識している(せざるをえない)人、エゴと社会のギャップを感じているは、特に、一度見てほしい。何か、わかることがあるかもしれない。単純に、めっちゃかっこいいSFアクションとしても一見の価値ありです。今でもモビルスーツのデザインや戦闘シーンの演出はハイカラだ!
 逆襲のシャアの面白さは、最初に語りにくいと述べたのはまさにその通りで、人や世界のカオスがそのまま映画にあることだと思う。ロボットアニメという大なる虚構の中で、そのカオスを腑分けせず、ただ提示していることがやはり偉大な映画だと感じる。

(きけりな)

 

ミスティック・リバー

 僕が大学時代に初めて出会った、個人的10点満点の映画が『ミスティック・リバー』でした。

 2003年公開のアメリカ映画で、監督はクリント・イーストウッド。物語自体は陰鬱さのあるサスペンスなのですが、映画表現が淡々としているので不思議と見やすい映画だなと思います。撮り方にあまり癖がないぶん、話の大筋やキャストをしっかり追える。これの肝は絶対にそこだし正しい。監督が作品の引き立て役に徹してるんですよね。てか世の中の監督って我を出しすぎなんじゃないですかね?作品見てると監督の顔ばかり浮かんじゃうみたいな監督、苦手なんですよね。タランティーノとか。。作品を自己紹介にしないでください!笑

 ミスティックリバーは後味悪い映画としても語られやすい作品です。見たあと拍手をしたくなるような結末ではないし、何度も味わいたくなる内容でもないです。でも、一年前くらいに久しぶりに見て、やっぱり良いな~と思いました。フィクションだからハッピーエンドで終わってほしいって言う人いますけど、僕はその意見全く理解できないんですよね。映画で大事なのって終わり方なんでしょうか。終わりよければ全て良し?うーん。。

 その世界に引き込まれて居られる、映画全体の使い方が上手な映画がいいですね。通して飽きを感じさせないというか。静と動がはっきりしていて静が退屈なものとかは苦手かも。静の中にも、退屈しない場面転換や展開があってほしいです。

 ミスティックリバーはキャストだとティム・ロビンスが好きです。上品さと愛嬌のあるベビーフェイスで、たっぱがある。この朴訥な役柄と合っていて、ついティムに感情移入しながら見てしまいます。

 ミスティックリバーの良さって何だろうと考えてみると、テーマの無さかもしれません。サスペンスとしてそこで表現したいサスペンス以外のテーマがなくて、純粋にサスペンスとして見られる。サスペンスの中で社会問題の提起とか家族愛のお涙とか、まじいらないんですよ。ただのサスペンスであることが、最高です!

(イッキューTOKYO)

 

スーパーロボット大戦30】

 昔はレトロゲー好きで、SFCRPGとか3DSくらいの時代まで実機でやってましたが、時間もなく話を共有できる仲間もいないので次第にやめていってしまいました。そんな自分がSwitchで久々にゲームハードに触れ始めたものの、ポケモンだけでずっと眠らせてしまってたのですが、この前ポケモンぶりに触ってハマったゲームが『スーパーロボット大戦30』です。
 ってまだクリアしてないんですけど笑 かなり終盤であとは作業を残すのみなんで全クリ面倒臭くなっちゃって(悪い癖)。ゲームってクリア手前でやめちゃわないですか?ラストダンジョンに挑む頃ってキャラクターも揃っちゃって新規性がないんですよね。あとはやるだけ、なのが非常に、めんどうくさい。
 スパロボ30って正直とんでもないヌルゲーです。難易度調整はできるけど、課金での追加設定である超高難易度以外はただ敵が硬くなって手間が増えるだけで、レアパーツが手に入るとかの難易度を上げてのプラスがない。それなら資金や強化ポイントが増えるビギナーモードのほうが純粋に俺ツエーしやすくて楽しいかな。と思いきや、それはそれで強くなりすぎてしまう。雑魚はたいてい一発で落とせるし、攻略で何の苦労もしないうえ各話1ターン攻略も可能。
 でもスパロボってキャラゲーですしね。SFCやPS時代の戦略ゲーっぽさってスパロボに結局あんまり求められてなかったんですね。好きなキャラで好きなように遊びたいユーザーたちに刺さってか30は結構売れたみたいです。強いけど好きじゃないゲッターやマジンガーを攻略のためにわざわざ使わなくても、ガンダム系のオールドパイロットとかでメンバー占めてもクリアできちゃう。雑魚ユニットや雑魚パイロットもある程度はアホ強化できるし、ちゃんと使えるものになる。
 スマホのソシャゲ感が強くて自由にステージを選べてしまうぶん、それ対応でストーリーが分割されてしまっていて話がほんとに面白くないけど、そもそもスパロボって見るほどのストーリーでもないでしょと思ってドラマはスキップしまくりました。たまに面白いクロスオーバー、前はあったけどね。
 キャラクターをかっこよさやかわいさで語ることが多い今に合わせた、いいスパロボかなと私は思いました。(まる

(イッキューTOKYO)

 

【CURE】

 黒沢清監督の映画『CURE』を初めて観ました。黒沢映画の魅力って私にはつかみきれなくて、合う合わないでいうと、率直に合わないんですけど、私なりにでも『CURE』は面白みが分かった(気がする)ので少し書きます。

 これってサスペンスSFヒューマンホラーみたいなものかなと私は思っています。サスペンスが軸だけど、設定はSFであり、そのうえでの人間たちの言動がやけにリアルでそこで怖くなってくるっていう。

 この映画では何人か人が死にます。黒沢作品の一番の魅力が殺人シーンだとは、別に言われていないと思いますが、私、黒沢さんの映画で人が殺されるシーンが手放しに好きです。映画全体としてはポカンとしたり首をひねったり、割とそんな感じなんですけど、人を殺すシーンはぞわりとしてシュールでいつも格好いいです。『カリスマ』のあのシーンなんて映画界トップクラスのソリッドだと思います。好き。

 主演の役所さんは本当に芝居が上手いですね。間が抜群に良いし、その台詞のニュアンスが寸分違わず口から発せられてるような、監督の意図を汲む勘の良さと作品への理解。相棒役のうじきなんてだいぶ下手なんですよ。台詞を言う前に、自分の中で芝居にワンクッション入れてしまってる。毎回「よし、この台詞を次に言うぞ」のキメがあるせいで、作品全体のリズムからずれるわけですね。それが許されるのは、松田優作だとか石原裕次郎だとか、まあ木村拓哉だとか、そういうスター俳優だけなんです。俺を見ろ、の間になっちゃう。

 黒沢作品って、非現実の設定の上で現実的な出来事が起こるその不和が作品のミソだと思うんですけど、その基盤の部分の非現実に触れると、私の中で「嘘じゃん」が勝ってしまって陳腐にB級化してしまうというか……。その上で描かれるリアルさがおもろいのは頭では最近理解ったんですけど、好みの問題ですわなボツワナ

 黒沢さんってホラー系の監督で語られてますけど、「私が撮らせてもらえるもの」という観点でホラーのジャンルを選んで撮ったそうです。大人というか業界というかの都合と、そこに作為的に食い込めるものとしてのホラーの選択だったんだと。一般的なホラー監督のイメージの真逆みたいな人で、そこは非常に興味深いです。それでこう撮るのか、って笑

(イッキューTOKYO)

 

濱口竜介

本題と少しずれるので総括には入れられませんでしたが、濱口竜介がみずからの演技指導について語っている文章がおもしろかったので推薦しておきます。

 

――『ハッピーアワー』以降、私は『ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリーでジャン・ルノワール監督がやって見せていた「イタリア式本読み」の真似事を、自分なりにアレンジしながら続けています。シーンに出演する役者一同が集まって、脚本のセリフをひたすら無感情に、電話帳でも読むように読み上げます。それをある程度繰り返したら、脚本を伏せたり開いたりしながら、更に本読みを続けます。伏せた状態でも開いているときと同様に文字通りに、無感情に、ほとんど自動的に口から出てくるようになるまで繰り返します。この状態になると、演者の声にある厚みが加わって感じられます。繰り返しによって役者に感じられるセリフの「意味」が摩耗し、役者の声から揺らぎが消えていきます。ただ、より即物的な事態は、テキストがより身体的に「役者の口に馴染む」ことです。普段言いつけない言葉を言うことに、口をはじめとした役者の身体や筋肉や神経が馴れていく。そのことで役者は単純にリラックスするのでしょう。このとき役者はブレのない、テキストそのものを自らの芯として持つような、そういう声を発するようになります。(…)そして、役者が自身もしくは相手役の身体を通じて、テキストの生々しい「意味」に撮影現場で出会うときに起こる反応は否応なく受動的で、役者自身のコントロールを超えた偶発的なものです。現在の私が役者を撮るときに何に照準を絞っているかというと、セリフや演技の巧拙では一切なく、この「役者の意図を超えて、身体に起こる偶然」です。言ってみれば、それは役者の身体の「ドキュメンタリー」を撮るようなものです。(『他なる映画と 1』253頁~255頁)

 

https://amzn.asia/d/aDhMzhN

(fesaki)

 

次回予告

 次の「ぬえすけーぷ」は「ホラー」をテーマにして、総括+推薦コンテンツ+実作+合評会を掲載しようと思います。

 具体的なスケジュールとして、

・8月11日までに活動報告を一回以上。それに対する応答は推奨するが任意。

・8月31日までに活動総括。

・8月31日までに「ホラー」をテーマに「推薦コンテンツ」と「実作」を執筆。

・9月1日から15日までを、座談会方式で実作への合評会期間とする。

 こんな感じでやれたらいいと思っています。なので、9月末には「ぬえすけーぷ」1号を掲載予定です。

 

招待

 

 なんちゃらリテラチャー部は随時会員募集中です。継続的な活動を行えるか不安な方も、まずは見学、という形でも歓迎なので、ふらっとご参加ください。以下、何リテラチャー部創設時の理念等。

 

https://nantyaraliterature.hatenablog.com/entry/2024/07/15/152824

 

 ポリシーに少しでも興味をもってくださったら、フランクにどうぞ!

 

https://discord.com/invite/7KYgFhqvjC

 

 

 基本的にDiscord上で活動しています。ぜひお待ちしています!

 

編集後記

 まずは、参加して頂いた方々に感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 思いつきと勢いで始めてしまい、参加者にはご迷惑をおかけしたこともあると思います。

 7月は「レクリエーション期間」として、「テーマ」(好きな映画)にコミットしたコミュニケーションに重点を置きましたが、自分の関心範囲を整理、表明しつつ、他者の報告に刺激を受けるという、当初の目的の一つであった好循環は形成できたと思います。また、皆さんがなんちゃらリテラチャー部のポリシーを理解して参加して頂いたことも、たいへんありがたいことでした。

 一方で、ライティング(報告・応答・総括)を強制する負荷や、運営体制の整備など、課題を発見する結果にもなりました。早い段階で問題点を認識できたので、少しずつ改善していきたいと思います。

 総合的に、「レクリエーション期間」としてはある程度の達成を感じました。今後、実作を中心に活動していく中で、円滑かつ有意義な運営を行いたいと思います。

 あらためて、参加者の皆さんに感謝を。

なんちゃらリテラチャー部 八月の活動について

 設立から一週間程度、五人の方に入部いただきました。あらためてありがとうございます。

 参加人数や七月の活動を踏まえ、八月以降の活動計画を仮決定しました。活動内容に(一部大幅な)変更があります。

 ざっくり活動内容を言うと、「なんちゃらリテラチャー部」では、テーマを設定した「雑誌」(はてなブログに公開)を作成します。参加者はそこへ向けて、表現方法は問わず、実作を行ってもらいたいと考えています。実作に対して、座談会(合評会)を行います。加えて、定期的に、レポートや日記のようなものを書くようお願いしています。

 以下、詳しく説明説明するので、ご興味頂ければはぜひ、ご気軽にご参加ください。

 誰でもウェルカムで随時部員も企画も募集中です!

 

活動内容について

・「活動報告」を一か月に数回行い、月末に「総括」、「実作」を行い、月の上旬に「合評会」を行うサイクルで活動していきます。ただし、「実作」と「合評会」のスパンは検討中です。

・「活動報告」を二週間に一度程度書きこむよう、お願いします。その期間内に考えたこと、体験したことを自由にお書きください。二週間以内に一度以上書きこむことも問題ありません。また、「雑誌」のテーマに即した「活動報告」を行わなくても大丈夫です(むしろ脱線推奨)。
・「活動報告」に対して、必ず「応答」(=「活動報告」への返信、返事)を行う必要はありません。ただし自主的に「応答」を行うことは推奨したいと考えています。
・「推薦コンテンツ」を一ヶ月に一つ以上書いて頂きたいと思います。必ずしも「雑誌」のテーマに即した「推薦コンテンツ」を書かなくても大丈夫です。
・月末(最終週)に「活動総括」を書くことをお願いします。なるべく、他の参加者の「活動報告」をある程度踏まえて、書いていただけると、互いの刺激になってベターだと考えています。

・「雑誌」のテーマに即した実作をお願いします。表現形式は問いません(小説、マンガ、評論、エッセイ等……)。また、実作には自身による自作解説を記載してください。
・実作に対する合評会は、座談会形式で行います。各々、他の参加者の実作に関する感想、コメント、批評等発言をお願いします。なるべく全員参加頂けると幸いです。

・実作の募集の締め切りから二週間を合評会期間とします。なので今回は、九月一日から九月十五日までを合評会期間とします。

「雑誌」について

・「雑誌」の作成に向けての活動を中期的な目標として行います。

・「雑誌」にはテーマを設定し、そこへ向けて実作を行います。
・テーマは参加者から募集し、合議によって決定します。決定が難しい場合、提示されたテーマの中からランダムに決定します。

・七月三十一日までをテーマの募集期間とします。八月一日から三日までを合議期間とします。

・「実作」は八月三十一日を一応の締め切りとします。

・「雑誌」で公開するのは、「活動総括」、「推薦コンテンツ」、「実作」、「合評会」になります。また、編集後記等も追加する予定です。

・九月以内を目安に、はてなブログ上に「雑誌」を公開予定です。

 

 以上、活動内容及び変更点になります。この計画も暫定なので、参加者(なんなら自分)の負担しだいで、柔軟に対応していきたいと思います。フランクにお申し付けください。

 みなさんが楽しめるようどんどん改善していきたいと思いますので、どうぞ今後ともよろしくお願いします!

 また、便宜的な活動のスパンは設けていますが、いつでも参加オッケーなので、活動できるか、維持できるか不安な方も、とりあえずノリだけ観察する感じで覗いてみてください。お待ちしています!

七月はレクリエーション期間! (雑)談体験入部募集中

  ざっくり、七月中は(雑)談を楽しもう! というノリでフランクにやっていきます。

 参加に迷っている方はよかったら、「レクリエーション期間」中だけでも仮入部みたいな感じでちょろっと覗いてみてください。

 

 方法が手探りかつ七月も半ばであるため、七月中は「レクリエーション期間」として、報告、応答、総括を休止し、少し方法を変更して実施したいと思います。

 七月中は「テーマ」を設定し、それに対して報告、応答、総括を(多少変則的に)行います。

 

 詳細な方法を説明する前に、「なんちゃらリテラチャー部」の方法を再確認したいと思います。

 「なんちゃらリテラチャー部」では、目的を必ずしも共有しないが、共同して日常的に、実作(制作)と向き合う環境を構築したいと考えています。実作するものは、「何かを作ってみたい」という気持ちが伴っていれば、表現形式は一切問いません。

 その「何かを作ってみたい」というモチベーションを維持し、方法論として確立し、解体し、さらに確立するため、

・報告

・応答

 を中心に活動したいと考えています。

 「報告」によって、現在の自分の関心や心身を再認識する。他のメンバーには(おそらく)関心のない内容でしょう。しかし、そこに強制的に「応答」することで、他のメンバーは自分の「範疇外」の思考を実践でき、自分にとっても(おそらく)「範疇外」の思考が発見できる。

 実作は目的ですが、前に書いたような、共同的かつ日常的な「範疇外」との接触の、単なる延長線でもあります。そのようなレスポンスを楽しみたくて、「なんちゃらリテラチャー部」を考えたと言っても過言ではありません。

 なので、参加されるか迷っている方は、「ただの知見を広げるためのおしゃべり」と認識して、フランクにご参加ください。

 「報告」、「応答」、「実作」の軸は変え難いですが、頻度や負荷は、あくまで仮の設定であり、ご意見を頂けたら(なんなら自分がしんどくなったら)変更は容易なので、ぜひ、ご相談ください。今週は忙しくて「応答」書けない……。みたいな状況などにも、対応を考えます。

 ここで「レクリエーション期間」の話に戻ります。

 ようするに、七月中は、「報告」と「応答」の「試用期間」としたいのです。

 具体的な計画を以下記載します。

 

・七月十五日から七月二十二日まで、「テーマ」を設定するので、それに関する「報告」を書いてください。さらに、この期間に書かれた「報告」に対して、最低一回、誰が相手でもいいので「応答」を書いてください。

・七月二十三日から七月三十一日まで、この「報告」と「応答」を踏まえて、「総括」を書いてください。

・「テーマ」は(暫定)「好きな映画」

 

 これは、相手からの「応答」を受けてから再び「報告」する練習でもあり、「報告」と「応答」を短期間で同時並行可能な負荷なのか試す実験でもあります。

 また、「総括」も必ず「報告」と「応答」に即していなければならないわけではなく、「特に新しい気づきは生まれませんでした」でもかまいません。

 「報告」、「応答」、「総括」は自由に思ったり感じたり考えたことを書いていただきたいですし、批判、批評も自由ですが、誹謗中傷は禁止します。節度とリスペクトを持って書いてください。

 肝心の七月の「テーマ」ですが、勝手に「好きな映画」と決めちゃったけど如何でしょうか。「映画の趣味が合うだけ~」という歌詞が良すぎたから、というのはおいておいて、これからの論点も言語表現だけを考えなくてもいいよ~というメッセージを込めて。あと、素朴に好きなもの語り楽しいよね、みたいな。

 この「レクリエーション期間」中に、ある程度来月以降の活動方針の目安を付けたいと思います。繰り返しますが、一応期間と方法は定めましたが、手探りなもので、改善案はドシドシ募集中です。「レクリエーション期間」にやりたいことがあったら、それもぜひ提案してください。新しい意見が出て、独裁的に自分が承認するか否かを決定するより、ひとまず合議制で決定したいとは考えているので、そのあたりも手間取らせてすみません。自分がある程度実権が強い方が円滑に運営できるなら、そちらにシフトします。

 

 というわけで、ざっくり七月中は、「(雑)談して遊ぼう」がコンセプトです。

 ここでなんとなくノリを形成できればいいなと思います。

 「報告」はあくまで、「最近の思考」を書いてほしいものなので、別に、今週見た映画だとこれがベスト、という話を必ずしもしなければならないわけではありません。

 気負いなく、ゆるーく楽しんでください。

「なんちゃらリテラチャー部」開設・理念・招待

 この度、ある種のオタクサークル/文芸サークルとして、「なんちゃらリテラチャー部」を開設してみました。趣味=個人の余暇と生活=社会的な要請を素朴な二項対立とせず、ある程度混然とさせながら、「実作」を共同的かつ日常的に行い、知的な刺激を互いに与えあう環境の構築を目指します。

 

 

 

なんちゃらリテラチャー部の理念

 

 「なんちゃらリテラチャー部」では、小説でも詩歌でも批評でもなんでもかまいませんが、参加者皆が実作を重ね、その実作への相互批評などを通して、参加者間で緩くコミュニケーションを取りつつ、参加者それぞれにとって未知だった可能性を拡張したい試みです。

 この試みのバックボーンとして、「つとむ会」と「いぬのせなか座」の活動があるので、その活動を紹介しつつ、「なんちゃらリテラチャー部」での目的を述べたいと思います。

 自分はかつて、「つとむ会」というネット上のオタクサークルに加入していました。正確に述べれば、「つとむ会」のDiscordサーバーはまだ残っており、自分もアカウントは加入していますが、事実上、自然消滅したとみなせる状況にあります。

 以下、「つとむ会」の理念について引用します。

つとむ会は、「古きよき」「カッコいい」おたくを目指すべく、日夜修行に励む宮崎戦士が集うDiscordサーバーです。
身近な表現でいえば、穏健的左派セクト。あるいはアニメなどのサブカルチャーを取り扱う、おたく系サークルと呼ばれうる組織でしょう。
ゆるく気ままにマイペースに交流し、時として目的を達成すべく団結する、つとむ会はそんな活動形態を目指しています。

 

たしかに、おたくにとって最悪の状況は少しずつ改善され、20年代に突入した今、おたくはようやく市民権を得たと言ってもいいでしょう。しかし、おたくがブサイクでキモくてチー牛大好きの恋愛弱者で頭の悪いゴミカスうんちとして低く見られていることに違いはありません。
ゆえに我々は、暗黒の宮崎時代を抜けて久しく、当事者のおたくが調子こいているこの時代で、あえてその名〈つとむ〉を掲げた会を立ち上げました。

〈瑕疵〉ある存在であることを引き受ける――いわばある革命の為にプロレタリアート階級意識を持ち引き受けるように。
自己を〈おたく〉そして〈宮崎勤〉として、世界へ投企することが我々のアンガジュマンです。

 

 自分がこの理念に一定の共感を覚えていたのは事実です。しかし、「つとむ会」の実態は、お気に入りのYoutuber(Vtuber)を紹介したりする程度の雑談サークルでした。理念としては「カントと共にサドを」を再び標榜し、知的刺激への憧憬と日常のくだらなさ(底辺Youtuberの視聴など)への諧謔を接続しようと試みていましたが、けっきょく「つとむ会」のDiscord上でのコミュニケーションは、一方的で発展性のない「放言」と、お互いが単に知っているコンテンツに共感する「雑談」になっていました。「つとむ」を題目にしても、「つとむ」はアンガジュマンにならず、素朴な「キモイ俺たちのモラトリアム」でしかなかったと言えるでしょう。しかし、「つとむ会」には創設の理念はあっても達成したい活動目的がなかったので、これは必然的な結果だったと考えます。

 自分は「放言」でも「雑談」でもなく、また密接に実存をかけあう「対話」でもない環境を構築したいと考えています。「つとむ会」の「ゆるく気ままにマイペース」に交流する点を引き継ぎつつ、互いに知的な刺激を得られるような、いわば「歓談」を発生させたいと考えています。そのために、「つとむ会」における「おたく」意識は、一度捨てる必要があります。「つとむ会」では、「資本主義下でコンテンツを漁ってただ生きているだけ」だが、「社会規範(オタクコミュニティも含む)に適応しきってしまうことへのカウンター意識は自負してしまう」という現状への自戒、自虐、自己正当化として「おたく」、「つとむ」を標榜していました。しかし、「おたく」として、言うなれば「下から見下す」態度を続けても、素朴な言い方ですが、「成長」はないでしょう。

 「なんちゃらリテラチャー部」は「実作」の場にしたいと述べました。つまり「実作」の過程でステップアップしたい意志を共有し、「消費者」に過ぎないコンプレックスと、「愚民」への優越感を捨てたい。エリート主義ではなく、互いに緩やかに影響を与えあい、知的な「成長」を遂げたい。

 このスタンスの影響源として、「いぬのせなか座」の活動もあります。以下、「いぬのせなか座」の理念の引用です。

いぬのせなか座は、言語表現を中心に、制作や出版、デザインや議論などを通じて、生と表現のあいだの個人的な結びつき=アトリエ、あるいは〈私の死後〉に向けた教育の可能性を、なるべく共同かつ日常的に考えつづけていくための場(制作集団・出版版元・デザイン事務所…)です。

 

小説や詩の作り手同士で集まり、自らの表現/制作の依拠するところを開示しあい、あわせてお互いの生が重視してしまう主題を共有して自らの避けがたい重力のひとつとしながら、共作ではなくあくまで個人として作品を作り、それを受けてさらなる議論を交わしていく。

 

 「なんちゃらリテラチャー部」では、この方法論をある程度引き継ぎたいと考えています。ただし、「主題を共有」することに重点を置きません。「いぬのせなか座」は「アトリエ」として健全に機能しており、参考に値するでしょう。ですが、「なんちゃらリテラチャー部」において、「アトリエ」性、あるいは「劇団」を作るような、「強い価値基準の共有」を主眼に置かず、活動したいと考えています。文芸部やオタサーが名目として掲げる「研究会」を、ある程度真剣に取り扱いつつ、「主題を共有する」意識が強い、「研究会」からも一定の距離を保ちたいと考えています。「主題を共有」することは、確かに意義があります。自分の重視する主題を深めるのに、読書会やゼミのような形式はたいへん有効でしょう。しかし、より無法図な環境にしたいのです。それこそ「文芸部」に純文学好きやSF好きやライトノベル好きなどが雑多にいて、それでいて互いにコミュニケーションは取りつつ、互いに緩く影響を受けるような関係を構築したいと考えています。ただし、実作をする「目的」は設置したいと考えています。ただし、その「目的」は参加者間で完全に一致させる必要はありません。

 なので、読書会は基本、行わない想定でいます。読書会は準備不足の場合、他愛ない自分語りと「雑談」に終始し、発展性はありません。一方できちんと準備し、問題意識を共有しても、互いにあらかじめ了承された問題意識を深めるのには役立ちますが、自分の論点にない部分を発見するのは難しいかもしれません。

 総括すると「なんちゃらリテラチャー部」は、趣味=個人の余暇と生活=社会的な要請の対立を、「おたく」として引き受けるのではなく、二項対立を退け、「実作者」として刺激を与えあう社交をする試みです。この刺激も、互いの問題意識を共有して深堀するよりも、個人ごとの問題意識はあくまで個人のもので、そこに興味のない他者があえて「関心を持つ」というアプローチで展開していきます。それによって、ゆるく繋がりながら、自分の関心範囲の外部から開かれるずれた回路をインスピレーションとして生じさせるのが目的です。また、活動の方向性には「目的」を持たせ、「雑談」に終わらない環境を目指します。

 

なんちゃらリテラチャー部の活動内容

 

 「なんちゃらリテラチャー部」の究極的な目的は、参加者が刺激を受けることですが、そのための具体的な到達点として、定期的に「雑誌」を作りたいと考えています。そのための過程を整理します。「雑誌」を除いて、基本的にすべてDiscord上で進行したいと考えています。

 ある程度具体的な活動として、テーマを設定した「雑誌」を作成します。参加者はそこへ向けて、表現方法は問わず、実作を行ってもらいたいと考えています。実作に対して、座談会(合評会)を行います。加えて、定期的に、レポートや日記のようなものを書くようお願いしています。

 以下、詳細な方法の説明となります。

 

・活動報告

 おそらく、メインの活動はこれになると思います。参加者には、二週間に一度以上、その週でしたことをレポートとして報告してもらいます。レポートと言っても、ほとんど日記ですね。その週で、考えたこと、書いていること、読んだ本、見た映画、聴いた音楽、食べたもの、道端にあった花、知人との会話、病気自慢……。なんでも大丈夫です。字数の制限も特に設けません。ペース配分は各々のペースで大丈夫ですが、ある程度、「日常的に」書けるペースで行いたいと思います。週末に書かなければならないという制約もありません。

 

・活動総括

 参加者は、他の参加者の「報告」をある程度、なるべく踏まえながら、月末には自分の活動を「総括」するレポートを書いてもらいます。これも気負う必要はなく、収穫がなければ「特に発見はありませんでした」など、そのまま書いてください。今月の「報告」のまとめ程度で構いません。これは「雑誌」で公開する予定なので、その前提でお書きください。

 

・推薦コンテンツ

 一か月に一つ以上お願いします。活動の中で、他の参加者に紹介したい小説やマンガ、土地、家電、なんでもありで、推薦してください。「現在の自分の問題意識はこのようなものにあります」、「あなたの問題意識はこれと呼応するところがある」というような言及としてぜひ用いてください。これも「雑誌」で公開したいと考えています。

 

・実作

 参加者は「雑誌」作成前に、何か「実作」を作ってもらいます。各々の関心に合わせて、小説(もちろんジャンル問わず)、随筆、詩歌、翻訳、マンガなんでも構いません。ただし、言語表現が主軸になると思います。ただ、音楽、映像なども歓迎です。また、この「実作」には、著者自身の解説を記載していただきたいと考えています。自身の方法を言語化し、再発見できる環境を構築するためです。また、後述する合評会の道しるべとしても、解説をお願いします。

 

・合評会

 ある意味、読書会の代わりです。「実作」に対して、座談会の形式でコメント、感想、批評等お願いします。厳密に批評を要求するわけではなく、「実作」がよくわからなかったり興味なければ、やはりその旨を書いてもらってけっこうです。できれば全員参加が希望です。

 「実作」の締め切りから、二週間程度の期間を「座談会期間」として行います。

 

・雑誌

 「雑誌」の制作を具体的な目標として活動していきます。「雑誌」にはテーマを設定し、それに即した実作をお願いします(「活動報告」、「活動総括」、「推薦コンテンツ」は必ずしもテーマと一致している必要はありません)。「雑誌」といっても、同人誌を発行したりするつもりは現時点ではなく、このはてなブログ上に、公開される前提で書かれたテキストをまとめる予定です。

 具体的には、「活動総括」、「推薦コンテンツ」、「実作」、「合評会」で記載されたものを、ほぼそのまま掲載します。編集権限は参加者全体に承認するつもりです。

 二、三か月のスパンで「雑誌」を作成したいと考えているのですが、あくまでつもりなので、実際の進行や負担しだいで変化すると思います。

 また、はてなブログで公開するのも、単に自分が使い慣れているから以上の理由はないので、媒体についても変化するかもしれません。ただ、Discordの参加者など一部の人以外でも「雑誌」は閲覧できる形式にはします。

 最初は自分が主に編集しますが、持ち回り制や自薦、他薦で主軸の編集は変化していいと考えています。

 

なんちゃらリテラチャー部への招待

 以下Discordサーバーです。

 

discord.gg

 

 誰でもウェルカムで合わなそうだったら抜けちゃって大丈夫です。

 運営体制は手探り感強いので、改善したいことや他にやりたいことあればそれも大歓迎です。

 

 最後に、体制とかまだ洗練されてなくて申し訳ないですが、緩く、かつ真面目に継続していきたいと考えているので、もしご興味持たれたら気軽に参加してください。

 そのわりに参加者に強いる課題が多くて、なかなか気軽にとは難しいかもしれませんが、「日常的に」継続できるよう負担は調整するので、一緒に「なんちゃらリテラチャー部」を作り上げていく感覚で、楽しくやりましょう!